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12月31日(晴天、晦日) HAPPY NEW YEAR





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May the New Year turn out to be the happiest and the best for you


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HAPPY NEW YEAR


生きていることに反省しないたちなので、一年を振り返るよりは新しいことへの興味が先立つ、

ただ、いっぱい愉しい出会いを頂いたことはストレートに感謝します、ありがとうございます、
さらに、愉しいワクワクを味わいましょう、


2009年は「愉しいワクワク」を追い求めて、未知のリアルな実感を体験する時代にはいっていきます、「ワクワク」はひとりでは作れない、「孤独」からは生まれない、


年末に、世界のあちこちから山のように届くメールを開くたびに、世界がバーチャルの呪縛から解かれて「新体験主義」へ向かおうとしているのがわかる、

「テレビ」も、掲示板に代表される日本的な「インターネット」も、量に比して内実はすでにやせ細った閉塞状態で、「終わって」いる、当たり前だが、「情報」は人生の主食にはなり得ない、

これからは、いままで以上に、上手く「体験」できる、あるいは良い「体験」のできる人の時代だと思う、「ポスト インターネット」の「新体験主義」は、その体験の「仕方」をより工夫し、「選んで」いく「クリエイテイブ」が求められる、そして「本物」が求められる、偽物ではもう代用が効かないのが21世紀なのだ、





先日、クライアントのKさんからジョアン・ジルベルトをお借りして以来、ブラジル音楽にのめりこんでいます、
何か、2009年に相応しい一曲をというので、ちょっと地味ですがカエターノ・ヴェローゾの初期の傑作「Coraçao Vagabundo(放浪者の心)」を選びました、

1967年のガル・コスタとのデビュー作はすでにカエターノらしい匂いを持ったどこかノスタルジックな音世界でいまでも私のフェイバリットです、コスタとカエターノは当時、ブラジルで最もヒップなカップルとして輝いていました、なにしろ、カエターノは遠い熱帯にあって、スウィンギングロンドンを実践していました、その後、実際にカエターノはロンドンへ逃亡します、
当時のキュートな面影はなくしましたが、いまや、国民的歌手になったコスタの円熟の歌声を用意しました、


私の心は日々の希望を飽くことなく求めている、、、、

内なる世界を持ち続けようとしている私の「放浪者の心」よ、

(百歳堂 意訳)


カエターノはその詩の世界観もクールで格好良い、惹かれます、

でも、まあ、お正月にはちょっと地味なので、スタンダード「Wave」をおまけに、、、













最高に、良い年をお迎え下さい、




with Best LOVE
R.H.





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by momotosedo | 2008-12-31 06:58 | NEWS

12月24日(陰、今年もあとわずか)  百歳堂「醍」研究室 「第三の円」 




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連休の間、久方ぶりに、ゆったりした時間を持てたので「百歳堂研究室」を愉しみながらフル稼働させていた、

国内、海外を問わずメールを出し、直接確かめたいことは、深夜に電話をかけ、なかなか面白い資料や、思わぬ拡がりがあった、とにかくレスポンスが早い、世界は猛速度で進んでいる、


このところ、ブログの技術的限界(写真データーが小さくて生地の質感が出ない、文字も選べなかったりする)や、ブログとしての枠の制約で書ききれないこともあるので、これらのことは「メール マガジン」にすることにした、そして、ブログはオープンなので、「メール マガジン」はクローズドにしてトコトンはっきりさせようと思う、


各分野で活躍する友人たちと話していてあらためて実感したのは、20世紀のスタイルと「枠」が次々とクラッシュし、崩れている中で、ここ5年で、それを「感覚的」に察知して準備していた限られた「グループ」は、すでに21世紀スタイルという未知の領域に入っていることだ、
(面白いのは、これら「本物の」グループに対して、それをただ形だけ真似たエピゴーネンも登場していることで、これはそのうち淘汰されるだろう)

そして、これらのグループには幾つかの共通した「キーワード」がある、


たとえば、先ず小さな円を描く、 =これが私とする、

その円を囲むように、もう少し大きな円を描く 、これが私を取り巻く環境だとする、



ここまでが、「マーケテイング」に代表される20世紀の考え方だった、


21世紀は、ここで、また、それを囲むように、もうひとつ円を描こう 、これが「第三の円」(copyright R.H.)だ、


21世紀においては、この「第三の円」がキーワードになる、この円をめぐっては幾つかの科学的アプローチがすでにある、しかし、それについては触れないでおこう、この続きは「メールマガジン」で、ハッキリさせたい、




21世紀は、多分、独立した循環機能をもつ極めて小さな「コミュニテイー」が乱立することで進歩していくのだと思う、そういう意味では「ネット」はすでに置いてきぼりにされている、良質な「真実」は、もはやそうそう「情報」化されない、、、




これからは、ブログで書いていくものと、とことんハッキリさせていく「メールマガジン」とに分かれていくと思う、いまのところ「メールマガジン」は、こちらで「勝手に」(?)送りつける「姿勢」(?)で募集はしない、クラッシックから21世紀スタイル、秘蔵のワードローブまで、もっと深く、もっと鮮烈に、、、愉しみに覚悟してもらおう、



感じるのは、「停滞」するところはグルグルと出口がみえない迷路を繰り返し回るだけで糸口さえ見つけられず、その一方で「革新」するところはドンドンその先を突っ走ていくという2極に分かれるのが21世紀だということだ、
アインシュタインのストレートな名言を残しておこう、


We can't solve problems by using the same kinds of thinking we used when we created them. Albert Einstein


「問題が生じたときと同じ考え方をしていては、問題は解けないんダよナ、」

アインシュタイン




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by momotosedo | 2008-12-24 03:20 | ■21st Century Style

12月21日(晴天)  「LOVE  愛の法則」 Happy Christmas! 





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Wishing you all the timeless joy of Christmas


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HAPPY MERRY CHRISTMAS



恋人たちに、格言をひとつ、、、




There is no remedy for love but to love more.


「愛の治療法はない、さらに愛するしか、、」







私の経験をいま思い浮かべれば、、、シンプルだけど真実をついている、、けだし名言ではある、、 チョッピリ、後悔もしたりする、、、



with BEST LOVE

R.H.

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by momotosedo | 2008-12-21 11:24 | NEWS

12月19日(晴天) 百歳堂「醍」研究室  「BSPOKEの時代  2」




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21世紀は生き方に関するものを、自分のサイズと本心から望むものに合わせ「BESPOKE」することに「気づく」時代です、それが、「生きる」ことの豊かさにつながる、と思います、



もっといえば、すでに「安全に」、或いは「価値に見合う」ものを得るにはそうするしかない時代になるかもしれません、

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ここ10年で、世界はウルトラフラット化し、既に国境による隔たりと「規制」はなくなったといわれています、これは、逆にいえば、我々を国境によって守ってくれる力が薄まったと置き換えられもします、


世界だけでなく、マインドにおいてもフラット化しています、例えば「老舗の料理屋」で出すものに「間違いがない」という思い込みは、「間違い」でした、或いは、「有名百貨店」に売られている品は「一流」だという思い込みも、単なる「思い込み」でした、さらに、国を代表する企業、BIG3は永遠だ、誰かが守るだろうという「思い」は、単なる「勘違い」にすぎないことが明らかになろうとしています、


これは、「国境」(地理的枠)だけでなく、「老舗」や「肉屋」、「米屋」、「大企業」という、イメージ上のこうであろうと言う「枠」(マインド上の枠)も、あてに出来ない時代になったということです、

つまり、ウルトラフラットな21世紀では、信頼すべき「既成の基準」、「枠」は、既にないか、果てしなく崩れつつあるということです、




その一方で、エルブリやファットダックは、「レストラン」、「料理」という既成概念に囚われず、いままでに体験のない「おいしさ」を追及して、急ピッチで進化しています、



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21世紀は、システムのなかで「クラウド(雲)」として、隠れて見えなかったものが明らかになっていく時代です、ウソはバレていきます、


そして、21世紀は、20世紀まで「常識」とされていたシステムが通用しなくなる時代です、アプリケーションを換えれば、どうにか逃げ切れるという次元ではありません、


いまになって、無駄に大きなシステムをもつ「企業」は、サイズを縮めようとしています、新たな「クリエイテイブ」を生み出すのではなく、無理やりサイズを縮めることに躍起なことからも、今までのその姿勢がはかれます、


すでに「国家」、「老舗」、「メガブランド」、「有名小売店」など、これらの「枠」は、崩れようとしています、或いはとっくに崩れています、


これらの「枠」が我々を守ってくれないならば、極論すれば、それに対してロイヤルテイーを持つことに意味はありません、もし、忠誠を誓うとすれば、それは、自分の「本心」だと思います、


いまや「自分」で、「自分」にふさわしいもの、安全なものを「自分」の目で確かめて、見つけ出さねばいけない時代です、しかし、それを作っているところに不審がある時代です、

こう考えると、自分が欲しい、必要なものを、自分仕様で「つくらせる」Bespokeは、実は古い「既成」に囚われた私たちが、「自由」を取り戻すというコトなのかもしれません、


当てにならない「既成」に大切なものを頼るのはリスクが高い、自分の目で確かめた「自分仕様」を生み出す自前のシステムを持つ、


それが21世紀であり、21世紀スタイルです、


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私が初めて、靴をbespokeしたのは、バーリントンアーケードにあった「ブール」という店です、いまは、残念ながらありません、採寸のため最初に店に出向いて、説明を受けているとき、そこの親父さんがポロッと、「世の中には注文靴をはく人間と、そうでない人間の2種類がある」と漏らしたのを覚えています、
私は長い間、それを「既成」ではなく「注文靴」の方が、足にフィットして質が良くて、、という「売り文句」だとばかり思い込んでいました、でも、いま思うと、それにはもっと深い意味があったような気がします、、




「Bespoke」をするという裏側には、大げさに云えば「既成」という枠からはずれる、様々な「転換」が含まれています、

サイズを選ぶのではなく、足に合わせる、スタイルを選ぶのではなく、好みのスタイルをつくる、、そこには、「自由」があります、と、同時に、自分の好きな素材、スタイル、或いはライニング、を「考える」ために、基になる「本心」が必要になってきます、

自分の欲しいものが、イマジネーション次第では無限大に適う「自由」が手にはいる代わりに、考え始めなければいけません、


ここに、「Bespoke」の真実があります、「考え始める」こと、そして「自分仕様」のものを手にいれること、ここから初めて「スタイル」が生まれ、モノを手に入れることが「生きる」ことの豊かさに繋がる行為にシンクロしていくのだと思います、



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ここしばらくの「既成」の動きは、「原価コスト」よりも、マーケテイング費用、販売費用にコストを割く傾向にありました、むしろ「原価コスト」は「効率」の名のもとにコストカットさえされました、それが、問題の根源です、いまや「安全性」さえ疑わしい時代です、「耐久性」は、はなから「限定」されたものとして計画されています、



そういう意味では、「Bespoke」は、いまやコストパフォーマンスに優れたものになってしまいました、




しかし、30数年にわたる私の「Bespoke」経験で実感するのは、「コストパフォーマンス」、「安全性」などは当然の「前提」であって、本当に価値があったなと思うのは別の次元にあります、


それは、「喜び」であったり、「驚き」であったり、感動やワクワクする「体験」です、


これは、「ストレス」が具体的な実体をもつ「病原菌」でないのと同じように、その「形」と「発病の仕方」を説き明かすにはあまりに個人固有のものなので適いません、しかし、「ストレス」とおなじように、具体的な「体験」を伴っています、


エルブリやファットダックのメニューと同じく、「美味い」のは当然であって、「食事」を愉しむという「本心」に戻って、「感動」や「驚き」を与え続けていることに「革新」があります、


これが、人間にとって、或いは一回しかない「人生」にとっては貴方が考えている以上に大切なことなのです、こうした体験を積み重ねたのと、そうでないのとでは大きな人生の「差」が出ると思います、
「生きる」モチベーションというのは、ストレスと同じく理屈ではなく小さなものの積み重ねです、



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(つづく)

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by momotosedo | 2008-12-19 09:28 | ■21st Century Style

12月17日(冷たい雨、暖冬ではなかったか) 百歳堂『醍』研究室  「オーガニック」




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エルブリの話を書き始めたときに、たまたま食事会の話がでて、会場となるレストランを探すはめになった、できれば、今まで行ったとことがない店が良いなあ、そして場所は銀座界隈が良い、旨くても青山やまして六本木ヒルズまでは近頃出掛けたくない、


そのとき、エルブリづいていたから、我が東京に「革新」はあるのかとも思ったし、「ミシュラン」に載っていなくて、しかしそれ以上に旨い店もいいなとも思った、例えば「載っていない」というなら、みかわの早乙女さんが揚げる天ぷらはどうか、しかし今回は昼なので、夜しか早乙女さんが揚げないみかわは残念ながらパス、


大体、「ミシュラン」というのは旅行者のための「ガイドブック」が基本だから、旅行者が安心して食事をとれるというのがコンセプトで、日本の食文化とアップトウデイトな今の動きを深く捉えて、特記すべきものを載せるというものではない、そういう意味では、ザガットサーベイの方が或る意味、住民アンケートを基にしていて、今「おいしい店」を探すにはコアなところがある、
簡単にいえば、「ミシュラン」はあくまで「英語版」が元本であって、日本語版は翻訳本と捉えるべきもので、みかわが載らないのも、その店構えが「旅行者が安心、快適」という枠から外れているからにすぎない、席からレストルームが見える店は、先ずミシュランには選ばれない、


「店屋は、商売だから美味いだろう、美味いだろうと思わせようとして、結果、調味料の味が先にたつ」といったのは魯山人だったか、海の「ふぐ」、山の「わらび」といったのも魯山人だったろう、


「ふぐ」も「わらび」も味がしない、いや、その淡白に最上の美味さが潜んでいる、と、


魯山人は、書にしても「職業書道家」のわざとらしい「上手さ」を卑しいと蔑んだ、料理も店屋の「わざとらしさ」よりも家庭でつくる手間隙惜しまない味が一番という信念だった、


家庭料理の手間隙を忘れてしまった今とは、時代が違うとしてもコンセプトは理解できる、とくに「淡白」が最高の味覚としたのは今一度、頭ではなく舌で実感したい、


「淡白」に美味さの深さを知る、というコンセプトはもしかしたら分子料理の「革新」を越えるかもしれない、

調味料をつかわない「オーガニック」、素材の美味さだけで、調味料の味に慣れた現代人に感動を味わわせることが出来れば、それも現代においては「新次元」だと思う、


それで、結局私が食事会に選んだ店は、全く化学調味料を使わないという銀座の中華料理店だった、オイスターソースさえ天然でつくられているという、金華ハムなどを煮込んだ「ソース」を料理のベースにしている、食べてみて美味しければ、このポストに写真を入れよう、


調味料を使わない中華といえば、「厲家菜」を思い浮かべるが、厲家の家庭料理をベースとしたそれとはメニューを見る限り違うように見える、中華がミシュランでもあまり評判が良くないのは、化学調味料を使うからだ、我々の想定にある中華の「味」と化学調味料は切りはなせない、厲家菜の味がいまいち納得できないところがあるのもココにある、

現代人に「オーガニック」を理解させる難しさは、「調味料」を越えた「美味さ」を生み出せるかどうかにある、


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来年のアトリエでも、「オーガニック」をひとつのテーマにしている、



「優れた素材そのものの美味さ」、味わいという、「加工」と「既成」に慣れた我々にとっては、かえって未体験の感動を提示したい、



そのひとつが「素材」では人の肌に最も近い「シルク」であり、これは極めて上質のデユピオーニが手にはいった、これはちょっと自信がある、

デユピオーニは、そのときの蚕が紡ぎだす「糸」次第で、同じ時代のものでも質に差がでる、極めて「天然」のものなのだ、これだけは、一枚、一枚に宿る上質を丹念に確かめ捜し歩くしかない、
そして、永らく忘れられていた、この極めて説得力のある「実用性」に富み、固有の味わいをもつ素材、デユピオーニで仕立てられたスーツは、着慣れたウールとは違う「未体験」のエレガンスを感じさせてくれるはずだ、





そして、「料理法」のひとつとして選んだのが古の「ソフトテーラリング」の「脱構築」である、


いわば「ネクスト」ソフトテーラリングだ、これは、いわば服を人の身体に「オーガニック」にフィット(まるで人体の一部のように)させて、かつ格好良いというのを考えようとしている、


もうひとつ、我が家の書斎にいま積み上げられているのが、50年代~70年代の「コットン」だ、

これらは、今の我々の「コットン」という想定を軽く裏切る複雑に凝った織りと柄、色出しが私を惹きつけている、

しかも、この織りを解析していくと、ある種のものは適度の「伸縮性」と「耐久性」を与えるために、この複雑な織りの計算がなされていることが分かる、

日本の高温多湿な夏を思うと、コットンが持つドライな表情と爽快感は捨てがたい、しかし、仕立てる側からみると、それがどの程度、身体の動きについていき、生涯の着用に耐久があるかが気になるところだ、


ひとつひとつの生地を見ていった限りでは、ある種のものは生涯の「友」としても適応しており、また、「ソフトテーラリング」の独特のカットと縫いを工夫すればイケる自信も見えてきた、



何より、この「表情の豊かさ」が捨てがたい、そう、これらのビンテージコットンは、古のツイードが持つプレイドの美しさ、多様な織りの豊かさと同様の「驚き」を持っている、








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by momotosedo | 2008-12-17 22:10 | ■21st Century Style

12月13日(晴天、ホントに暖かいと思う) 「太った鴨と21世紀のテーラー」 2





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All fixed set patterns
are
incapable of adaptability or pliability.
The truth
is
outside of all fixed patterns.
Bruce Lee(!)


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21世紀スタイルは「本心に戻る」ことから始まる、そういう意味では「新しい哲学」の時代だといえるかも知れない、

エルブリが「エルブリワールド」ともいえる世界観をもつように、マーケテイングテクニックからではない、本心からでた「世界観」が新次元を開くと思う、

大久保は、六義の準備期間中に、一緒に蕎麦をたぐっているときに、ぽろっと漏らした「僕は、ラスト代をもらいたくないんです、ラストは職人の僕にとっては財産なんです、、、」それ以来、我がアトリエではラスト代を請求していない、




ビスポーク「ヘビーユーザー」であり、ヨーロッパのシューメーカーのやり方に不満が溜まっていた私は、それに、こう答えることにした、「大久保、一足目から完全にフィットさせてくれ、一足目は仮縫いと思ってくださいとか云う、ケチくさいことは云ってくれるな、」、、その結果、あくまで手を抜かない仮縫い靴と、合うまで仮縫いを繰り返すという六義のスタイルが生まれた、会議室で囁かれる「マーケテイング」戦略どころか、我がアトリエのスタイルは蕎麦屋での男二人の本心から生まれた、


確かに、クライアントとシューメーカー双方が、納得いくフィッテイングとスタイルを持つ靴の出来上がりを具体的なイメージとして共有するためには、完成品に近い仮縫い靴を納得いくまで繰り返し試すしか方法はない、しかし、それは明らかに「効率」に反する、


この時点で、アトリエは「効率」よりも、「靴屋」に徹することになった、


そして来年で、5年目を迎えようとしている、
幸いにも「スタイル」を崩すことなくやり続けている、


BIG3の破綻や、偽装問題を見るにつけ、人の「本心」という言葉を思い出す、たまにはどうしょうもナイ奴がいるにしても、私自身は、人間はそう捨てたモンじゃないと思っている、


「本心」が曇る理由についてはみんな心当たりがある、そして、いまの時代に「本心」に戻って、そこからスタートするということには、「コスト」とある種の「犠牲」が必要になってくる、そして最も大切なのがつぎの次元を切り開くタフなクリエイテイブ力だと思う、


時代は変容しながら「価値観」を変えていく、そして21世紀の価値観は「本心に戻る」ことだと思う、すでに、それは数々のウソがばれるという形で現れている、


20世紀の象徴であった「ネット社会」も、実体験と正しい知識を持たない、間違った「情報」でメタボ化するだけですでに陳腐化している、いくら「検索」しても「フレッシュな」真実は「情報化」されていない、


真実は、
目で見て、手で触って、不器用で良いから本人と話して初めて手に入る、例えば、革は同じタナー、同じ値段でも一枚一枚違う、大久保は時間をかけて数十枚を丹念に調べて、結局買わない場合もある、そして、大久保が「買わない」、「送り返す」ことに、「意味」がある、

今、バンチを出している「ミル」で、すべての生地を自社生産しているところはないと思う、すでに、ほとんどがマーチャント化し、そして、ほとんどのミルのバンチの内容に差はない、これはとっくの昔に公然の事実だった、現場にいけば分かることだ、そして、当然のことながらひとつひとつの生地が問題であって、ミルの名など形骸化した今では意味がない、


そして、クラッシックスタイルと同様に、単にスーパーの値、梳毛、紡毛、の違いだけでなく、クラッシックな生地には今一度探索すべき尽きせぬ奥深さがある、そして、これらは、もはやバンチに現れるはずもなく、自分の足で捜し歩かなければ見つからない、




英語の「Bespoke」、「Tailor Made」には、服や靴をビスポークするだけでなく、旅や住宅、あらゆるものについて、既成ではない「自分仕様」のものを各人に合わせてつくるという意味がある、その意味で21世紀は「BESPOKEの時代」だと思う、


生き方に関するものを、自分のサイズと本心から望むものに合わせ「BESPOKE」することに「気づく」時代だと思う、それが、「生きる」ことの豊かさにつながる、



我々は長い間、「既成」に「慣れ」てきた、だがいつのまにか「既成」はときに安全性に欠け、マーケテイングという我々には関係のない利益構造からウソをも多く潜ませるようになった、「ラグジュアリー ブランド」が高価なだけで、ちっとも「ラグジュアリー」ではないことに今では多くの人が気づいている、


いまや、「Bespoke」するほうが、流通段階で奪われる無駄なコストを省けて「お得」だったり、安全であったりもする、


ブルース・リーがいうように、真実は「決められた型」の「外」にある、



「既成」に真実味がなくなったことに、メーカーは潔く反省すべきだと思うが、同様に現在の「Bespoke」がはたして「真実」を充分、クライアントに果たせるほど持っているかについても疑問が残る、

穿った言い方かもしれないが、私の目には、いま「既製服」が、「Bespoke」のイメージを無理やり被せようとしている一方で、マーケットに「目の利く」テーラーは、値段を含めて「既製服」に限りなく近づこうとしている、

いまどき、ハウス「スタイル」、或いはまっとうなクラッシックを真剣に考えるテーラーは稀で、「効率」を追うために、「ビスポークテーラー」は、パターンオーダーに走り、できあいの芯地を使い、雑誌の売れ筋「トレンド」に目を配っている、



約20年前に物理化学者のエルヴェ・ティスとニコラス・クルティーが、料理における「変化」を科学的に解き明かして、“分子ガストロノミー(ガストロノミー・モレキュレール)”を発表して以来、エルブリのフェラン・アドリアやファット・ダックのヘストン・ブルメンタールなどが、未知の料理世界に挑戦し続けていることを思えば、「ビスポークテーラー」の現状は悲しい限りといわざるをえない、


なんでもファットダックには、厨房とは別に、料理人だけでなくスタッフに科学者、心理学者をふくむ「実験室」が併設され、しかも新しく「第2実験室」が設けられたという、

「第2実験室」で扱われているテーマーは、いままでのファットダックの方向からすると意外なものだった、それは、、、ここでは云わないことにしょう、

ファットダックの「第一実験室」では、いくつものプロジェクトが同時進行している、一皿の料理に料理人はもちろん、科学者、心理学者、ときには脳科学者、調香師、味覚の専門家などが関わり、専属のリサーチャーを雇うこともある、でき上がるまでには数ヶ月、或いは数年かかることもある、しかも、それらはすべて「成功」するとは限らない、


「食」は、すでにそういう次元に入っている、そしてこの二人の料理人はクラッシックからキャリアを築いている、しかもクラッシックを越える「美味さ」を目指している、ここが重要なところだ、






料理に例えてみよう、素晴らしい「料理」をつくるための「素材」は「テーラー」にとっての生地と置き換えられる。

ところが、「一般のテーラー」で聞く生地の説明は、紡毛、梳毛、平織り、綾織といったところとバンチ一辺倒で、教科書の範疇をいまだ出ようとしていない、そんな説明は実はあまり意味がない、

真実に大切なことは、
AのシルクとBのシルクの違い、壱のハイツイストと弐のハイツイストの違い、いま織られたシェットランドと古にシェットランド島で織られたものとの違い、という一枚、一枚の「素材=布」の探求とその「新鮮な」提示にある、



スーパーの高さだけが、布の品質と思われていた数年前のイノセントな時代ならばそれでも体面は保たてたろう、一流のシェフが、少なくとも先ずは「素材」の吟味に拘る一方で、「テーラー」はバンチという「レトルト」にまだ囚われている、



同じことは、「テーラリング」という「料理法」そのものの捉え方にもいえる、

私が常々不満だったのは、現代のヨーロッパのテーラーではほとんど差という「ハウススタイル」がないことで、少しの手癖をハウススタイルと呼ぶべきものではないと思う、スタイル、或いはテーラリングに対する研究度合いの広さと深さが手ぬるいと思う、或いは、それをやっている暇も、余裕もないのかもしれない、


「ハウススタイル」というのは、クラッシックでスタイリッシュなプロポーションや、味わい深いデイテール、スタイルにふさわしいテーラリングということだけではなく、そのスーツを着て出掛けるその人への思いがある、




つまり、テーラリングのアプローチがクライアントに向かっている限り、当然、それは「着手(着る人、着こなし)」としての立場からテーラリングが細かく「解析」されていなければいけない、

「古い着手」のテーラーは、「古い」着手の立場しか実感できないだろう、「レベルの低い着手」のテーラーは、そのレベルでしか実感できないかもしれない、テーラリングのアプローチは先ず、着手としてのテーラー自身を考え直すことから始まる、




例えば、六義のトラウザーズは、静電気をおこさず、動きになじむ独特の素材でフルライニングにしてある、
これは、ツイードは味わい深いが、トラウザーズにするとチクチクしてイヤになってくることや、ロングホーズがトラウザーズの足元でひっかかり、裾がもたつくという私の経験から自然にそうなった、

しかし、職人にとっては、ライニングが半分の方が、ふくろはぎのクセをとる(六義ではかなりカーブさせる)のにはラクなのだ、フルライニングにすることによって、よけい技術と手間がかかる、しかし、この両方が六義のトラウザーズには必要なのだ、「ハウススタイル」とはこういうものだ、「スタイル」というのは気構えを示す、

(つづく)











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by momotosedo | 2008-12-13 14:31 | ■21st Century Style

12月11日(晴天、今年は暖冬だそうだ) 「太った鴨と21世紀のテーラー」  エルブリとファットダック




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最初に運ばれたのは、球形の硝子のコップにはいった「水」だった、
ピレネーの山から流れた水、そしてそれを黒いストロー、と思ったのは実はバニラステイックで出来たストローで、飲むと口のなかに清冽な味が広がっていき、特別な食事の始まりを知らせる、
或いは、、、次の料理をワクワクしながら待っていた私たちに運ばれたのは、海の貝殻がひとつづつ、その中を探るとIPODのイヤホンが、、、耳に当てると潮騒が遠く聞こえる、しばし白砂のビーチを想いだしていると、箱庭の海岸のような一皿が、、、タピオカで創られた砂浜に縁取られて、鰻の稚魚、雲丹、蛤、蛎が、海藻からとられたソースの「エア」(泡)でくるまっている、




エルブリとファットダック、どちらもミシュランで世界のベストレストランに選ばれている、そして多分、最も予約困難なレストランとしても有名で、それはニューヨークのグラマシータバーンなどは足元にも及ばないほど困難、ほとんど不可能ともいえる、


ファットダックはロンドンから一時間ほどの田舎町ブレイ村に、エルブリはスペイン、カタルニア地方の小さな入り江に面したロサスにある、大都会の真ん中にあるわけではない、しかし、「料理」の「最先端」がそこにある、




あまりに予約困難で、世界中のグルマンにとってもはや「伝説」となったエルブリは、4月から9月までの半年間しか営業しない、後の半年は新しい料理の「開発期間」に当てている、エルブリの厨房スタッフは55人、レストランのテーブルは50席にも満たない、なんでもスタッフのなかには科学者もいるそうだ、


「科学」、、、そうエルブリも、ファットダックも、いままで味わったことのない「革新的」な料理を目指している、例えば、エルブリの名物料理である「メロンの偽キャビア」は、塩化ナトリウムや、ジェルの素にもなる海藻成分がはいった「水」にメロンのピューレを垂らしてつくられる、そしてそれは、本物のキャビア缶を模した、エスプリが効いた「オリジナルの偽キャビア」缶につめられ、パッションフルーツのソースをかけられて供えられる、
ファットダックでは、「箸休め」で出される「HOT AND ICED TEA」は、まさしく熱い茶と、冷たい茶がひとつのグラスのなかで混じることなく交互に現れるマジックのような仕掛けになっている、


しかも、ここでは、オリーブの実に見えるものが、実はそれを正確に模したジェリーで、口に入れて迷っていると弾けて中からオリーブのジュースが噴き出すというのは序の口で、柔らかいと思ったものが堅く、しかし、実は柔らかく(?)もあり、冷たいと思ったアイスは、意外に冷たくなく、しかし、しばらくすると固形ではなく、空気の冷たさを持っている、、、という風にまるで科学実験のように観念を裏切る未知な世界に連れ込まれる、






アプローチが全く違うのだ、そして、旨い、「革新」がいままで味わったことのない食感、風味に結実している、だから並み居る強豪を抑えて、ベストレストランに何回も選ばれているのだろうが、正直にいうと、当初は私は珍しさが無くなれば、飽きてしまうだろうとおもっていた(といっても、どちらも一度しか行ったことがない、予約が難しいのです、)、しかしいい加減なコケ脅しの革新ではなく、迫力が違う、へそ曲がりで疑い深いグルマンもねじ伏せる力がある、
もはや、トゥールダルジャンなどの伝統のクラッシックも、ピエール・ガニエールなどのヌーベルキュジインヌやアジアンテイストとの複合も、置いてきぼりを食ったような印象を与える、力強い革新なのだ、




そして、「一口で食べてください」とか「三口を想定して食べてください」とか「指示」されるのはまだしも、IPODや、オークの香りのするフィルムを含んで、ドライアイスの煙をたてるオークの苔をテーブルにおいて「香り」を楽しみながらフォアグラとトリュフのトーストを食べるというふうに、五感を刺激するテーブルアプローチも今までの常識を覆していて、かつ愉しい驚きがある、ファットダックのコースの中には、箱詰めにされたシリアルの袋を取り出して自分でつくって食べるというのもあった、



この二店を見る限り、「料理」はすでに、別次元の21世紀スタイルに自信満々に入っている、


「エルブリ」のウエブは、最新のアーテイストと同様に刺激的でさえある、
(タグをクリックしたとき最初に現れる印象的なショートビデオは、クリックする度に別バージョンが現れる工夫もなされている、)


そんなコトを考えたのも、近頃のテーラー「業界」のことを思ったからだ、まだ10年前と同じことを繰り返していないか、或いは30年前と比べると、逆に後退さえしていないか、


来年用の50年代のシルク、コットンという思い込みを裏切るビンテージコットン、古の「ソフトテーラリング」用の型紙、、、テーラリングというのはマダマダみんな知らないものが多い、クラッシックは貴方が思っている以上に奥が深い、


アンテイークの紋章が刻まれたメタルボタンのひとつひとつ、古の生地の織りのひとつひとつ、昔日のまっとうなテーラーのひと針ひと針を確かめることから、私なりの「革新」を始めたい、









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レポーターがいまいちですが、「エルブリ」のコースの一端がバーチャルに楽しめます、8分余りと少し長いですが、実際には35~6品、デイナーには約4時間あまりかかります、一種の革新に溢れたタパスの連続で、いわゆるスターター、メインという形式に囚われていません、かなり自由に「デイナーを愉しむ」ということが解釈されていて、そしてメニューのつながりが、驚きを与えることをも含めて綿密に計算されています、

私が食べたメロンの「偽キャビア」は、この日は「オレンジの偽キャビア」になっています、やはり、シーズンによって変えるのでしょうね、では、ボナペテイ、、、









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by momotosedo | 2008-12-11 09:37 | ■21st Century Style

12月9日(雨)  「アレクサンダー大王」 英雄ふたたび




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コミック好きで、オタクに媚をうる首相を抱える我々をはじめ、大人物と呼べる指導者を失くして久しい今日的状況のなかで、誰か胸のすくような大きなスケールの世界的指導者と考えたとき、思い出すのは、あの「アレクサンダー大王」である、

白状すると、私は「伝記」好きで、書物になっているもの、いないものも含めて、さまざまな人物の人生を「コレクション」している、その他人の人生についてのエピキュリアンである私が考えるに、どうも経済や「文化」が発展していくにつれ、人間のスケールは逆に矮小になっていく気がする、読んでいてもツマラナイ、しかも、現実世界では、もっとツマラナそうに生きている人が多い、そんなとき、決まって「口直し」に開くのがマケドニア(ギリシアの北部)の王、「アレクサンダー大王」の英雄物語である、私はファンなのだ、




アレクサンダー3世は美男子で、なおかつ聡明(なにしろ家庭教師が、あのアリストテレスだ)、「3代目で家が潰れる」どころか、20代で東西4500kmにわたる大帝国をつくりあげる、つまり世界を征服したのだ(ここでいう世界は、今とは違う、アレクサンダーはインドまでを征服し、そこで止まるが、これは当時の世界地図では、そこが地の果てで、そこから先には大地がないことになっていたからだ、)、そして絶頂期の32歳で急逝する、


アレクサンダーの地政学的世界征服の足取りについては、多くの文献が語っているので、ここでそれを繰り返すことはないと思う、特筆すべきは、負け知らずの秀でた軍人であったと同時に、真剣にギリシア文化と思想を広めようとしたことで、アレクサンダーのもとには思想家、歴史家、天文学者、彫刻家、植物学者などありとあらゆる学者、科学者、芸術家がたえず従って、ヘレニズム文化を世界すみずみにまでひろめていく上で、良い仕事をした、地理的拡大だけでなく、文化の「質」が良いのだ、
ミロのビーナスや、瀕死のガリア人、サモトラケのニケなどの人類史に残る傑作が生まれたのもアレクサンダーの功績といえよう、ヘレニズム文化の痕跡は法隆寺を支える柱にも残されている、


しかも、男としてはグッとくる胸のすく英雄伝説に事欠かない、

例えば、インド遠征からの帰路、ゲドロシアの砂漠を行軍しているとき、飢えと渇きから兵士たちが次々と倒れていくなか、ひとりの兵士が王のために一杯の水を見つけてきてさしだした、しかしアレクサンダーは「わたしは兵士とともに苦しむほうを選ぶ」といって躊躇なくこれを砂漠に捨てた、


或いは、有名な「ゴルディオスの結び目」、リュディア王国のゼウス神殿に一台の古い戦車が「ゴルディオスの結び目」と言われる複雑に絡み合った縄で結わえられ祀られていた、
言い伝えでは「この結び目を解いたものがアジアの支配者になる」という、それを聞き及んだアレクサンダーは、兵士を引きつれ、神殿につくやいなや、やおら腰の剣を抜くと結び目をスパリと切り落とし、兵にむかって、こう告げた、「運命とは伝説によってもたらされるものではない、自らの剣によって切り拓くものだ」、


、、、まだまだ、ある、、、、


残された逸話を見ると、勇敢なだけでなくアレクサンダーには明晰な知性がある、さすが幼少の頃よりアリストテレスに学んだだけあって「賢者」の趣さえある、なさけない男が多い今の世にあって、アレクサンダーの伝説には学ぶところが多い、




アレクサンダーは病死したことになっているが、私の考えでは間違いのもとは征服する世界がなくなったあと軍服を脱いでしまったことと、「東西融和政策」だと思う、

自らも征服したペルシアのダレイオス3世の娘を娶り、部下にもペルシア人との集団結婚を奨励し、東西融合にアレクサンダーは心を配った、「賢帝」としてはふさわしい政策であったろうが、ここで初めてアレクサンダーの鋭い知性が曇ってしまう、歴史的にみてもこの「良策」は自らの帝国に矛盾と退廃をもたらすことは自明の理だと思う、「大王」は「大王」のままでいるべきだった、




一説には、アラビア遠征を計画していたとも言われるが、私が憶測する真実は、平和の世で、かつ成り立ちの違うペルシア人に囲まれての生活は、アレクサンダーにとって自らの能力を持て余す日々ではなかったろうか、そして、多分、賢明なアレクサンダーは、このことに後になって気づいていたと思う、結局、日ごろに増して酒量が増え、バビロンの川で泳いだ後、悪性の風邪を引き高熱を出して息を引き取る、アレクサンダーの墓は、いまだ発見されていない、



、、、「運命とは伝説によってもたらされるものではない、自らの剣によって切り拓くものだ」、、、



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DO! A DAY

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by momotosedo | 2008-12-09 19:38 | ■百歳堂 a day

12月1日(晴天) 「永く愛して」



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21st Century Style
BESPOKEの「時代」
百歳堂 |  永く愛して


もう、ホントのことをいってもいいんじゃないかと思う、でも、まあその前に上の写真に映った我が愛用品の説明を、

いかにも英国らしい、やけにしっかりした肉厚のピンストライプのスーツは、1974年、イートンのデンマン&ゴダードで仕立てた、バッファローホーンの傘はもう少し「新品」で、約20年前にブリッグでつくってもらったもの、グレーのスーツに合わせるために薄いグレー生地を張ってもらった、本当は薄いベージュを考えていたが、「すぐに汚れの筋が出る」という店の反対にあい、妥協して「薄め」のグレーにした、ネイビーのガルーシャのローファーも、もう20年ぐらいまえに、室内履きのつもりで注文したが、個性的なのでかえって何にでも合う(と思っている)、私は写真のいかにも英国的なスーツにも合わせてしまう、そして、これらは、もちろん今でも現役で日々活躍している、



アトリエでもお若いクライアントの方が、「バブルの頃はまだ子供で、服を買えなかったのが良かったです、あの頃、社会人だったら、今頃、着られない服をいっぱい抱えていました、」と、この方からは、ときどきドキッとする言葉が出る、、核心をついてますね、多分、多くの人が「あの頃の服」を持て余している、当時、私も街を歩くたびに違和感を感じてました、何よりあの長い袖丈は、どう見ても奇妙でした、、、、

つい先日、友人と昼下がりの銀座で待ち合わせをしていて、約束にはまだ間があったので、目の前にあった「セレクトショップ」をブラリと覗いて、地下におりていってスーツを眺めていると値札に60万と、正直いって6万のマチガイかと思いましたね、よっぽど呆けた顔をしていたのか、店員さんが寄ってきて「イタリアの某サルトのもので、手仕事の入念な仕立てで、、、」と、でも見たところ普通のテーラリングでした、第一、身体に合わせずに「入念な」仕立てができるのか、、、既製服や「パターンオーダー」に「手仕事」や「ビスポーク」のイメージを被せるのは、どだい矛盾する話だと思います、



21世紀はウソがバレていく時代です、逆にいえば、これからはコトやモノにしっかりした本質や哲学が必要とされる時代です、ただ、これは大げさなことでなく、「当たり前」を正直に積み重ねていけば良いことだと思います、

多分、こうした既製服には多くの人が関わっているのでしょうが、何故か、一対一でテーラーとつくる服よりも、愛情が薄く、生命も短い、そして、どこかに「勘違い」がある、

何より、自らの服、ワードローブをつくっていくという「愉しみ」に欠ける、




メーカーの一方的な「勘違い」に踊らされることなく、自分仕様(まさしくテーラーメイド、ビスポーク)のワードローブをゆっくりと、愉しみながら、つくりあげる、もう、それに気づいても良い時代なのではないかと思います、







f0178697_1405690.jpg1973年に仕立てたピュアカシミアのボーテイングストライプのスポーツコート、中にセーターやスリップオーバー(ニットベスト)を着込むのであまり極端にウエストを絞らせなかったせいもあるのか、一度、直しただけでいまだそのまま現役、

変わったストライプに見えるが、これはボーテイングストライプと呼ばれる正真正銘のクラッシック、このストライプは地味な方で、かなり凄い色の組み合わせのものもある、ボーテイングという名の通りボート競技の観戦とか選手用のユニフォームが起源らしい、

これは、ボーテイングストライプでもピュアカシミアというのが珍しい、昔は、変わった柄のカシミアが生地棚の奥に隠れていることがあった、

スカーフはA Sulka & Coのポロモチーフのもの、家のクローゼットにあったもので、年齢不詳だけれど、私は少なくとも20年以上は使っている、








男のワードローブというのは、自らの趣味嗜好やライフスタイルに合わせて「つくりあげる」ことに愉しみがある、

そして、それは <壱>生涯にわたって愛用すべきもので、

だからこそ、<弐>ファッションではなく「スタイル」であるべきだといえる、


「スタイル」という言葉は、濫用されている割に、それを上手く説明しているものが見当たらない、確かに説明しづらいが、本当は、「スタイル」を知り、実践している人が少ないからではないかと思う、

先ず、「スタイル」を自分の「趣味嗜好、好きなもの、したいこと」と置き換えて、「スタイル」のあるワードローブを考えてみよう、


この「趣味嗜好」というのは大切で、ワードローブは存分に自分の趣味を反映させるべきもので、「、、、こうでなければならない」という教科書風のものでもない、と私は思っている、



例えばダンデイとして知られる現代アメリカを代表する作家トム・ウルフのワードローブは多分、その8割がたが「白いスーツ」(彼のシグネチャースタイルである)で埋め尽くされているだろう、

何故ならば、それが彼の「スタイル」だからで、そして、そのホワイトスーツでトム・ウルフというライフスタイルは見事に成り立っている、変わってはいるがそのワードローブは正しく機能している、その限りにおいて、その一風変わったワードローブはウルフのスタイルにおいては「正しい選択」といえる、(つけ加えれば、ウルフのスーツとその着こなしは、1930年代のダンデイを彷彿とさせるクラッシックなイングリッシュドレープに拘っている、)



例えば、ここしばらく、「トレンド」だった何とかイタリアは、極く私的「偏見」からいうと多分、世界では「通用」しない、
それは、例えばチャールズ皇太子(趣味、或いはスーツの仕立ての良し悪しは別にして、一応はヨーロッパの服装の規範となる大英帝国ロイヤルファミリーである)と、トム・ウルフ、何とかイタリアを並べてみると分かるような気がする、

ウルフ、イタリアどちらも変っているが、ウルフは皇太子より「スタイル」がある、変ってはいるがエレガントである、手厳しい好事家でもその着こなしと、何より確かに「スタイル」を持つことにおいてウルフに敬意を示さざるをえない、

翻って何とかイタリアはどうか、正直云って、妙に悲しく場違いな気がする、

それは、ウルフは「スタイル」を持っているが、何とかイタリアは普遍性をもたない「ファッション」に過ぎないからだと思う、多分、「ノルヴェーゼ」と同じく、第二の「あの頃の服」になりかねない気がする、
 

しかし、何とかイタリアの代わりに、某百貨店で売られている「イングリッシュドレープ」のスーツを買ってくればスタイルが手に入るかというと、そうとも思えない、

それは、その「服の生まれ方」に理由があるような気がする、







f0178697_1838766.jpg1978年にオールドバーリントンストリートにあった頃の「デェイビース & サンズ」で仕立てたコロニアルタンのギャバジンスーツ、いかにも当時のロンドンの「洒落た」テーラーのプロポーションが愛らしい、いまのサビルローとは違う、

このスーツは、先染めのしっかりしたギャバジンで仕立てられている、今のギャバジンはもう少し繊細な感じで、こうした「古臭い」ギャバジンも見なくなった、

蝶タイは、友人にもらった、なんと「Society of Colonial Wars」のクラブタイ、そういう協会もあるのだなあ、どういうつもりでくれたのかは、その経緯そのものが思い出せない、多分30~40年前のもの、ブルーストライプのシャツは目の詰まったカルロリーバーを使ったクニーシェのビスポーク、これは比較的「新しく」12,3年前に仕立てたと思う、








この頃、感じるのは、服は何か、「静かな声」を持っているべきじゃないかと思うことで、「声」を持つかどうか、それは、その服の「生まれ方」によるのだと思う、

そして、正しく、愛情深く「生まれてくる」ために、テーラーがいると思う、


結局、「ビスポーク」というのは、その人のための生涯愛せる服を、正しく「生まれさせる」ためにあるといえる、この「正しく」、或いは「まっとうに」というのが大切なことは云うまでもない、

既製服や「パターンオーダー」が、そのシステムや成り立ちから、この範疇にはいらないことは分かるとしても、私の経験から云うと、すべての「ビスポーク」が「正しく」「まっとう」であるかというと、残念ながらそうではない、ここがややこしいところだ、


これを、まともに説明しようとすると、かなりややこしくなると思う、


先ず、「正しく」、「まっとう」というのは、一方的に「正しく」、「まっとう」ではなく、そこには、クライアントとテーラーという、まさしく「ビスポーク」(お互いの意見をだしながらつくりあげる)という相互の関係がある、厳密な意味でビスポークは決して一方的なものではない、


難しいのは、テーラーもクライアントも、経験豊かで、まっとうな知識も深く、豊富で、正直に必要とされるものが目の前に揃えられていれば(生地、腕の良い職人、スタイリングに関する深い知識と経験、、等々)理想だが、そんなことは、稀だと思う、


私は、「クライアント」、そして「テーラー」という両側面を経験しているから、よく分かる、


先ず、「クライアント」としての私にしても、「成長過程」があった、つまり、正直にいって,
注文し始めた頃の若い私は仮縫いではドコがドウ悪いのか、ドコをドウ直せば私の「理想」に近づくのかさえ分からなかった、或いは、気にもしてなかった、もっといえば、中途半端に「成長」した頃には、間違った半端な知識に囚われていさえした、

ただ幸いだったのは、当時のヨーロッパのまともなテーラーには、若いクライアントに「失敗させない」という、「服の番人」的な気構えがあったことと、知識の宝庫といえるパーソナルテーラーと早い時期に出会ったことだった、
(特に、イートンと深い関係にあったデンマン&ゴダードの世話になったテーラーは、紳士のあるべき服装について強い信念をもつ愛すべき頑固な人物で、チャレンジ精神溢れる私としては、当時はやや不満もあったが、いまとなっては若い時分にクラッシックを経験できたのは貴重だったと思う、しかも、それらの服は、直しもしたが今も現役で活躍している、むしろ今の方がそのスタイルに愛着を感じさえする、)














f0178697_1771948.jpg15年前ぐらい前に仕立てた、チョット変った質感のシルクウールを使った春のスーツ、不思議なシャリ感があるくせに柔らかい、

この頃から、既存のテーラーでは飽き足らなくなり、日本の職人さんに手助けしてもらって、自分の思うテーラリングを試しはじめる、
これは、イングリッシュドレープというよりは、1910年、20年代(つまりベルエポック的な)のテーラーリングとプロポーションを自分に合うように置き換えようとしたもの、
肩パッドを外し、しかし私の肩の骨のラインにあわせて、凹むところには部分、部分でドミットをいれて補正している、芯地を柔らかく、慎重に改良し、独特のカットでスタイルを創っている、パッと見ではわかりにくいが、現代のテーラーがしない独特で、非常に凝ったことをしている、

写真には映っていないが、ラペル付きのウエストコートも7つボタンのベルエポック的な極めてクラッシックなカットにしてある、ヨーロッパに着ていくと思いのほか好評で、一見、麻のようにも見える生地とともに、どこでつくったのか聞かれることが多かった、来年は、アトリエでもこのソフトテーラリングを発展させてみようかと思う、

ニットのタイはラデイコンテイーニのやはり15,6年前のもの、シャツはホリゾンストライプのシルクコットンをつかって、1910年代風の大振りのフレンチカフ仕様で同じ時期に仕立てた、






我がアトリエでしつこく云い続けていることは、生涯、愛用できるものを造るということに尽きる、

これは、歳をとったときでも似合うような当たり障りのない、しかし頑丈な服をつくるというわけではなく、むしろ、自分の経験からいっても欲しいのは、いつ着てもフレッシュで格好良く、エレガントで自分を良く見せてくれて、生涯にわたって愛せる服や靴ということだ、

そのために、最良の生地を揃え、裏地を選び、仮縫いを繰り返して顧客の「スタイル」を造っていくことを追求したいと願っている、縫いに関しては、私は完璧主義すぎるかもしれない、

これは、様々なテーラーで様々な服を誂えた経験上、仕立てが良くても結局、格好悪い服は着なくなるし、スタイリッシュでも仕立ての劣る服はやはり、どこかにヒケ目を感じて着なくなる、そして、最初は気づかなくても、モノが分かってくるにつれ、美意識が高まるにつれ、この傾向はより厳しくなる、

「永く愛せる」というのは、耐久性だけでなく、こうした美意識、知識の高まりにも耐えうる、いやむしろ、モノが分かってからの方がより実感として愛せるもの、ということだと思う、








f0178697_17112350.jpg1926年に祖父がベルリンのテーラー、「パスカール & タフラン」で仕立てたオペラコート、いまは仕立てられるところも無くなったベルエポックのエレガントな夜会服のためのコート、いま見るとグラマラスにさえ映る、

ラグランスリーブで、裾の広がった或る種のAラインになっている、ラペルとカフに上質の拝絹が使われていて、裏地の厚手の黒絹も含めて、生地がいかにも本物でしっかりと織られている、こうしたものをみると目が洗われる、

極めて丁寧に仕立てられていて、私はプロポーションを守りながらも少し仕立て直して、ウイーンなど寒い街でのオペラや集まりに時々、いまも拝借している、

夜会用のストールは、やはり祖父がA Sulkaで注文したもの、非常にしっかりした黒と白の絹のリバーシブルで、模様がジャガードで浮き上がっている、面白いのはイニシャルがレースで縁取られていて、祖父はミドルネームの変わりに祖母の名前のイニシャルを入れている、

オペラシューズは約20年前にローマのガットでつくった、ソール全体がベベルドになっている凝ったつくりのもの、















21st Century
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by momotosedo | 2008-12-01 18:27 | ■21st Century Style