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8月29日(陰、大雨の予報あり)  良き時代の「感覚」を越えられるのか もしくは A.Sulka & Company


百歳堂日乗


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An Aesthete's Lament 
Sulka

百歳堂 |  衣服をつくるという「感覚」



SULKA(シュルカ)、それも、ここは拘って、「A.Sulka & Company」と云おう、なぜなら、シュルカのロゴは時代によって多分3回変わっていて、60年代以前の、「A.Sulka & Company」と記されたラベルがついていた時期のものに秀逸なものが残されているからだ、、、シュルカは、古くはノエル・カワードがそのシグネチャーであるシルクのドレッシングガウンをつくらせていたことなどで知られるハーバーダシャー(紳士雑貨店)、カワードだけでなくウインザー公、チャーチル、クラーク・ゲーブルなども顧客だった。「A.Sulka & Company」というラベルの時代のシュルカは、こうした一家言あるような顧客にある種の信頼があったように思われる。残念ながら既に、店を閉じてしまって久しい。そのラベルが変わる毎に、時代の変化もあったろうが、店としての質も変わっていったように思う。経営者も何回か変わり、最後の持ち主は、カルテイエなどを有するヴァンドーム グループだった。

シュルカに限らず、この時代の良いハーバーダシャー(紳士雑貨店)に私は魅かれる。事実は歴史の向こうにいってしまったので確かめることは適わず、こちらの「思い込み」かもしれないが、想像のなかでは、ワクワクするような品で溢れた店内が浮かんでくる。



その「思い込み」の理由は、残された幾つかのもののクオリテイーにある。ただ、それはいまの「質の高さ」というのとも違うように思うのだ。単に、貴重なビキューナーとか今はない織りとかいう「素材の珍しさ」のせいだけとも言い切れない。
仕立てが違う?確かに、よくできているが、部分的には今のほうが優れたものもある。
じゃあ、いったい何が違う? それは、そのものを作る「考え方」、或いは「感覚」が違うように思えてしかたがない。例えば、ここに「贅沢なスカーフ」があるとする、その贅沢なスカーフという言葉から思いつくイメージが既に今とは違っている。多分、その「感覚」に魅かれるのだと思う。それは、「デザイン」じゃないんだな、

「贅沢なスカーフ」とは、こういうもんだよ、という「感覚」。それも、フラフラしたものじゃなくて、分厚い経験と遍歴に裏打ちされた、言い切ってしまえる「感覚」。その時代の幾つかのものは、そういう、はっきり言い切った「存在感」が伝わってくる。「今年の流行です」と云うのとでは大きな違い、


時代も違う、ライフスタイルも違うといってしまえばそれまでだが、例えば「スカーフ」に対する考えが単に「かっこいい目をひくスカーフ」という「セールスポイントを備えた商品」ではなくて、スカーフの歴史を経て、紳士が身に着けるべき美しいスカーフという、スカーフそのものの「存在」になっているような違いだと云うことができる。


その違いが、スカーフの微妙な幅や、長さや端のフリンジの始末の仕方や色の組み合わせ、もろもろに影響して、ひいてはバランスや量感そのものに違いをあらわす。そして、それは「時」に風化されない美しさをもつようになる。デザイナーがビンテージを繰り返しコピーするのは、そこにあると思う。「デザイン」では適わないものが、そこに存在するからだろう。


「感覚」という言葉の選び方は正しかっただろうか、誤解を多く生み出してしまいそうだ、ここで云いたかったことは、「感覚」は「学習」とは違う、ここまでは分かってもらえるだろうか、そして「感性」とも違う、
「感覚」と「感性」の違いは、例えばこういうことだ、ものを作るとき、手先が無意識に描いてしまうものが「感覚」だ、いつも慣れているように、或いは、ここはこうするのが当然だから、つまり「感覚」は染み付いたもので、それまでの自分が実体として現れる。それは「事実」としてある。

優れたピアニストが、指先に「感覚」を押し込めるために、飽きることなく練習することを想像してほしい。そして、指先が覚えた「感覚」は、時に意図していた以上に鍵盤の上を踊り、さらなる地平をみせることもある。つまり、優秀な「感覚」は、それ自体が独立していき発展していくのだ。


「感性」は、その「感覚」に至る前のもので、身体や肉体がしっかり覚える以前の頭のなかのものと、私は意図している。どうだろう、分かってもらえるだろうか、


私は、職人さんと仕事をさせてもらうとき、まずその「感覚」を確かめていく、それは一朝一夕にできあがるものではないのだ。「感性」のレベルで話し合っていても、私の欲するものは生まれないことは、もう知っている。この部分においては、私はエゴイステイックな体験主義者なのだ。


これからスタートし始める六義のハンドメイドのレデイ トウー ウエア「GINZA 1」や「Made to Measure」も、実は、この「感覚」を目に見える形にしたいとうエゴな願いがベースになっている。

フルオーダーのクライアントとコラボレーションしていく愉しみとは別に、純粋に今まで得た、或いは、その得たものから発展させた、私が魅かれる「感覚」を形にして提示したいというのが正直なところ原動力になっている。

ただ、これは大変な作業なんですね。私の拘りは強いし、理解できる技術や仕様ばかりでなく、「感覚」を具体的な作業に落とし込むのには体力と時間がいる。そして、情熱がいる、ときには菓子折りや一升瓶で職人さんを懐柔する必要も生まれる、、、これは半分、冗談ですが、、、しかし、愉しい作業ではあります。


そうそう、シュルカの話だった、、、





シュルカのスタートは、アモス・シュルカとアルザス・ロレーヌ出身のシャツ職人レオン・ウルムザーが出会い、1895年にマンハッタンのブロードウエイの下町に小さな店を開いたことから始まる。その店の経緯では、ラスベガスを作ったバグジーらギャングスターが自分たちの気に入るシャツをつくるため出資していたともいわれている。ウルムザーは腕の良い職人だったと見えて、身体に正しくフィットするそのシャツは評判を呼び、富裕な顧客も店に出入りするようになって、1904年にはパリの店をオープンするまでになる。


比較的早い時期に、パリの店がスタートしていたということもあり、私はてっきりシュルカはヨーロッパを出自にした店だとばかり、長い間、信じ込んでいた。
ロンドンの店があったという記憶は私には不思議にない、チュルリー公園近くのパリの店はいつも滞在していたホテルの近くだったということもあり、記憶に残っているし、名が知れていた。
確かに、色だしの綺麗なストライプのシャツが豊富にあって惹かれたことは、いまでも覚えている。


シュルカのスペシャリテイーは、創立以来、やはりハンドメイドのシャツとネクタイだった。面白いのは、店独自でクリーニング店をもっていたことで、当初は縮み防止のためシャツ地を仕立てる前にあらかじめ一度洗いにかける必要と、店の職人が作業中につけた指の跡などの汚れを最後に一度洗い落とす必要があったからだったらしい。パリの古い仕立て屋でも、そうやって仕立て後に一度、洗濯に出してからアイロンを当てて客に手渡す店もあった。ちなみに、六義のビスポークシャツでは、一度、生地を「地のし(地直し)」(布を水にある時間つけた後、重しをかける)をしてから、仕立てることにしている。


そして、1917年からは顧客へのランドリーサービスを始めている。このおかげで、シュルカのシャツを着る顧客は、下手に巷のクリーニング屋に洗濯に出して、シャツにダメージを蒙る心配もなくなった。これは、実に好評だったらしい。(これは、うちでもスーツに限っては、選んだ水洗いのクリーニングに出すサービスはしている。ただし、コーヒーなりを上着、或いはパンツの全面にわたってこぼしてしまったとかいう緊急事態のみで、原則としては、いくら水洗いでもスーツのクリーニングはお勧めしていない。持ち込まれるもののほとんどは、いわゆる「スポンジング」で済む範囲の汚れが多い。
着た後の日常の手入れ方法と、呼吸のできるスーツカバーをお渡ししてそれに入れて保管することを基本に勧めている。ブラッシングも生地によってはお勧めしない。)


この時代のシュルカのシャツ生地は、リヨンで特別に織らせたものだった。実は、このラベルの期間、シュルカは自身のミルをリヨンに持っていたのだ。


この時代の広告によく「Sulka Silk」という表記がでてくるが、これは単なる広告表現ではなく、事実、自社ミルで織ったシルクなのだ。リヨンは、長く絹織物の産地として名高い街で、この時代のシュルカのシルクは確かに、質と独特なデザインがある。


そして、これは、シャツ、ドレッシングガウンだけでなく、なにより、そのハンドメイドのタイに使われた。シュルカのタイが、この時代、他と比べて優位性を保ち、一家言ある顧客に好まれた理由は、ここにある。タイの生地そのものが自社ミルでつくられているからこそ、あのバリエーション豊かな、時に特殊な織りの質の違うものが生まれたのだ。


シュルカは時に大胆ともいえる贅沢な素材の使い方をしている、特に黄金期の末期ともいえる60年代は、その時代の雰囲気もあったせいかアバンギャルドとも云えるものもあった、当時のある広告には、最上級のビキューナーを使った、男女お揃いのドレッシングガウン、本物のレオパードスキン(豹柄)に、裏地にビーバーを張った手袋というものも登場している。誰が買うのかというなかれ、なんとロマンとファンタジーをもったハーバーダシャーだったろう。

  百歳堂日乗





copyright 2008 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa


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by momotosedo | 2008-08-29 03:23 | An Aesthete's Lament

8月28日(降り続ける雨)  グローバリーゼーションとスタイルについて その2 「移動する日々」





HARD TALK
Style

百歳堂 |  移動する日々(コレハ断片的ニ綴ッテイッテ、最後ニ「パズル」ノヨウニ組ミ立テヨウ)




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70年代後半からスタートして、80年代は、すさまじい勢いで移動し続けていた。
そして、手にあまるぐらいのプロジェクトを抱え始めていた、

そのひとつが、ウイーンの脱構築主義のコンセプター、建築家チーム「コープ ヒンメルブラウ」の日本では初めてとなる、プロジェクトだった。しかも、彼らに発注したのは私(たち)だった。


当時、「コープ ヒンメルブラウ」は、日本の前衛的な建築家の「隠れた」アイドル的存在(こういうと怒られるだろうが)で、そのデイテールの一部の「形」だけをまねるエピゴーネンもいた(これも怒られるだろうが)、建築の新しい地平を示すコンセプターとしては、その名はヨーロッパ建築界の良質な部分で認められるところだったが、その前衛的な姿勢もあって、まだ大きなプロジェクトは少なかったように思う。


同じような存在に、ザッハがいたが、多分、彼女は当時まだ実現された建築をもっていなかったのではないかと思う。ただ、その特異性は誰もが認めるところで、事実、ザッハかコープヒンメルブラウか迷ったが、とにかくコープ ヒンメルブラウの存在感は、その筋金入りの製作姿勢とともに圧倒的だった。

そもそも、コープ ヒンメルブラウを最初に「見つけてきた」のは当時のパートナーで、彼女はロンドンでジャーナリストをしていた。個性的な女性だったが、彼女のおかげで、フランソワ・ボワロン(著名な映画監督ミッシェル・ボワロンの息子)、デイローザー、レミー・ブロンシュアなど、後のニューヨークグラフテイアートにも影響を与える当時のパリアート界のニューウエイブ「フリーフィギャラテイブ」(Figuration Libre )のアーテイストたちと親交ができたり、(後に、この画家たちに家の様々な装飾品を注文しはじめる、このいきさつもできれば後述する、レミー・ブロンシュアは、一番ひとなつっこく、ナイーブで、お洒落だったが、アトリエが火事になり、保管していた作品全てを失い、その悲しみから立ち直れず鬱に陥り、薬に手を出して結局、オーバードーズで亡くなった。悔やまれる。)大変興味深い経験の糸口ができたことは、素直に感謝しなければいけない。


私は、当時、新しい建築のムーブメントに興味は引かれていて、それなりに理解もしていたけれども、それは鑑賞する側であって、移り変わるパリの街並みなどには少しノスタルジックな批判さえ覚えていた。むしろ、様々な経緯から引き受けていた現代日本画家50人によるヨーロッパでの展覧会の進行途中で、当時の日本画の画壇をとりまく政治的な雰囲気と、ヨーロッパではまだ「装飾美術」としか捉えられていない日本画の現実の狭間で右往左往していた。


あの当時のコープ ヒンメルブラウは、有名な初期の作品、鋭く尖った鋼鉄の羽をもつ、「レッドエンジェル」というウイーンの小さなバーが、必ず紹介記事には載っていたから、そのプロジェクトの規模は今とは隔世の感がある。しかし、その小さなバーですら、そのコンセプトの鋭さと新しさは衝撃だった。


何しろ「コープ ヒンメルブラウ」(ドイツ語で 青い空との共同体)という名前からして、どう捉えれば良いのか最初は面食らった(実際には建築コンセプトから生まれた名前なのだが)、スポークスマンといえるヴォルフ・プリックス氏と、東京で焼き鳥を頬張りながら話した時、「ロックでもバンド名を決めるでしょ、そういうもんです」と、嘯いていたが、たしかに「コープ ヒンメルブラウ」は、最初は3人、当時はすでにプリックス氏とマイケル・ホルツァー氏との2人の独特な建築家チームだった。そして、コンセプト、スポークスマン担当であるブリック氏と技術面に秀でたホルツアー氏という具合に何らかの役割分担ができていて、長身痩躯のブリック氏、どちらかというと丸っこい体つきのホルツァー氏とその姿も対照的だった。



「脱構築主義」に関しては、さんざ、それは説明し尽くされているし、ウエブでも書籍でも探ることはできるので、ここでは割愛する。ただ、当時の彼らのコンセプチュアルな仕事ぶりを伝えると、あの当時は、プリックス氏が目をつぶって「スケッチしたもの」を基に、そこから建築を作っていくと言う手法をとっていた、その後、それは、プリックス氏がその手を組み合わせた形を写真にとり、それを基にして建築をつくるという手法に移行する。多人数のサポートチームを抱える現在は、どうなのかは知らない。つまり、概念に囚われない建築、脱構築主義の筋金入りというのはそういうことだ。



目をつぶって書かれたスケッチを手渡されたクライアントは大概びっくりする、大丈夫なのか?しかし、2人とも、極めて優秀な建築家なのだ。ホルツァー氏は、その建築で多用される鉄の専門家でもある。そのスケッチから、巧妙なモデルが製作され、必要に応じて細部にわたって天才的ともいえる図面を製作していた。
ただし、日本でさらに驚いたのは、この図面を、現場を見ながら平気で変更してしまう、そして、時には現場で図面を製作してしまう。いわば、音楽でいうヘッドアレンジ、現場はセッションの様相を帯びてくる。日本の施工業者は、随分、面くらい、施主という立場にある私は間に立たされる。しかも、或る日、施工業者に打ち合わせに行った帰りに、そのビルの入り口の階段でブリック氏が足を捻って捻挫するというおまけまで付いた。



























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by momotosedo | 2008-08-28 04:24 | ■建築の夢

8月25日(夏日、雨、涼しく感ず) アドルフ・ロースとジョセフィン・ベーカー







建築の夢
ADOLF
Loos
百歳堂 |  アドルフ・ロースとジョセフィン・ベーカー




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今日は、朝から雨が続いている、その分、幾らかすごし易いのは有難いが、ここしばらくの東京の天候は、灼けつく真夏日とスコールを思わせる突然の激しい雨、轟く雷鳴とまさしく熱帯を思わせる、気象学者の友人によると、温暖化の影響で将来には、日本には四季がなくなるだろうということ、北海道と東北の一部を除いて、熱帯になってしまうよ、と友人はおどかす、それは近い将来の科学的な事実に違いないだろうが、それでどうしたの、私は熱帯は嫌いではない、京都の紅葉を3~4日かけて散策する愉しみは失うだろうが、私は古いベレッタのものをはじめサファリジャケットをコレクションしている、ヴォーゲルでハンテイングブーツも誂えてある、幸い祖父が残してくれた往年のマクスウエルの底に鋲の打たれたエレガントなフィールドブーツもある。これらは、いまどきのリゾート地ではなかなか身につける機会が少なかったが、それが日常着になるのもおもしろい。りっぱに、サヴァイブしてみせるよ。

しかし、地球環境が変わろうとしてるのは現実で、それは近い将来の我々の生活の転換を意味しているのも実感する、、、そして、こんな日にアドルフ・ロースのことを語るのはふさわしい。




というのも、ロースは、いま我々がお手本とすべき愉快で頑丈な「時代のサヴァイヴァー」だったからだ

バウハウスに通じる、装飾を徹底して省いた機能主義のその建築は、王宮を中心に据えるウイーンの街には大きなショックだったが、同時に彼のオープンマインドで、骨太の精神を携えた、自由に流動するライフスタイルも、世紀末ウイーンのオールドファッションな社会(社交界)に大きなショックを与えた。

彼は、新しいコンセプトを掲げるスター建築家であると同時に「作家」(或いは発言者)であったことを忘れてはいけない。これほど、建築家で「書いたもの」を残した人も稀有だと思う。


「装飾は、犯罪だ」と、ウイーン分離派をはじめとする旧体制に噛み付いた攻撃的ともいえる論説の数々をはじめ、新聞には定期的にコラムを寄稿し、寓話に形を借りて新しい生き方を伝えたり(有名な「The Poor Little Rich Man」というコラム)と生涯を通じて書き続けた。一種のカリスマを持った「グル(導師)」だったのだ。

そして、その活躍の場はウイーンだけでなく、ヨーロッパ特急を駆使して、パリ、ニース、ロンドン、ベルリン、ハンブルグ、ベニス、ミラノ、プラハ、ブダペストへと拡げていく。モダニズムを確信したのも、ドレスデンの学校を終えるとすぐさま留学したシカゴでの20代のときだった。
マルチリンガル、少なくともドイツ語、チェコ語、英語、フランス語を母国語と同じく堪能に話し、そして、いつもダンデイな姿だった、
彼は、発言し、国境を越えて自由に移動する建築家「Artitecture Dandy」だったのだ。これは、いまでこそ珍しくないが、当時は、その存在とスタイルこそが、新しい時代を予感させるひとつの「ショック」だった。


彼がクニーシェの大きな顧客であったことは知られているが、残る写真でもその服装の趣味に秀でていることがわかる。
ウイーンのクニーシェも彼の手によるが、実は60年代までシャンゼリゼにクニーシェのパリ支店があった。それも、ロースの手によるもので、祖母の話によると祖父はその店構えのほうが好ましいと思っていたらしく、いつもシャンゼリゼで頼んでいたという。祖母も、ウイーンよりパリの店の方が良かったと言う。

同じく「Artitecture Dandy」と知られるフランク ロイド ライトよりも、私はロースの方が確かな着巧者だと思う。それにロースは3回、結婚している。


ロースは、パリにもアトリエを構え、トリスタン・ツアラの邸宅などヨーロッパ中(時には、シカゴやニューヨークへも)をかけめぐりながら仕事をしていた、そして常にロースの行くところ時代を代表する煌びやかな友人たちとのパーテイや、つきあいがあった、彼は、新しい建築とともに、新しいライフスタイルのグル(導師)でもあったのだ。




f0178697_2011738.jpgそして、彼はダンスが上手かった。(ウイーンの人は舞踊会が根付いた社会なのでダンスがうまい)当時、流行の先端であったチャールストンも上手かった。彼に、チャールストンを教えたのは、1920年代のパリで、一世を風靡したあの稀代の黒人ダンサー、ジョセフィン・ベイカーだった。

「ブラック ビューテイ」と呼ばれたベイカーは、アメリカの流行のチャールストンをヨーロッパに最初に紹介したといわれている。
ベイカーは、当時、パリのフォンテーヌ通りに社交界のエリートが集まる「シェ・ジョセフィン」という自身の豪華なクラブをもっていて、ロースは1926年にはじめて彼女と出会っている。
ベイカーは、ヨーロッパの社交人種にチャールストンを教え始め、そのレッスンに異常ともいえる情熱で熱心に通っていたのがロースだった。その結果、彼はジョセフィン・ベーカーは、ロースのことをヨーロッパで最も優れたチャールストンの踊り手と認めていると自負していた。

そのロースの実現されなかった「傑作」のひとつといわれるのが、右の写真のジョセフィン・ベイカーのレジデンツ(自宅) プランである。


これは、天才建築家ロースが、天才ダンサーベイカーへ送ったオマージュといわれ、実現されなかったが、細部にわたったフロアプランまで作り上げられている。

外壁は、パリの「ブラック ビューテイ」にちなんで、白い大理石の地上階の上のファサードはブラック&ホワイトのモダンで魅力的なストライプを描いていいる、フロアプランの圧巻は、大きなガラス窓に囲まれた室内プールで、館の庭からはまるで水族館のように見えるという、魅力的なファンタジーをモダニズムというデザインに洗練させた建築なのだ。





f0178697_20324642.jpgもうひとつの、実現しなかった「傑作」は、シカゴの新聞社シカゴトリビユーン本社の75周年を記念した本社ビル建築コンペのために設計された摩天楼である。

この建築コンペのテーマは、「世界で最も美しく、そして際立った姿をした建造物」というもので、ロースはパリにアトリエがあったことから、フランス代表の一人として参加している。

当時、ロースはドイツ、パリ、そしてウイーンのバウハウスの建築家がつくる建物がすぐに「古くさ」い印象を与えることに、疑問を感じていた。つまり、バウハウスのデザイナーたちは、まるで女性の帽子のように流行を追って、デザインをめまぐるしく変えてしまっているのだ。
その結果、つい1年前に完成したものも、完成から数ヶ月たつと「古くさく」みえる、、、


ここから、ロースのデザインもかわっていくのだが、このコンペにおいて、ロースが選んだ時の流れにも風化しないモダニズムデザインは、磨き上げられた黒い御影石でできた「ギリシアの円柱」である。

ロースの戦略は、ピサの斜塔のようにシカゴの代名詞となるような塔の建立であった。しかも、これにはロースらしい、言葉遊びも隠されている、その名も「The Chicago Tribune Column」、「円柱=Column」は、新聞の記事を意味する「コラム=Column」と英語では同音なのだ。

バブリーな頃の東京だと、すぐ喰いついてきたことだろう。結局、このコンペはジョン・ハウエルとレイモンド・フッドの当時アメリカでポピュラーだったネオゴシック建築に決まった。


このふたつの「実現されなかった傑作」を見ても分かるように、ロースはコルビジェとは違う。ステレオタイプのバウハウスのデザイナーでもない。

事実、「装飾は犯罪だ」という宣言から、自らの道を独立で切り開いてきた人で、意外にそのモダニズムと建築には、人間ロースの温かみとか或いは哲学的ともいえる幅の広い思考が潜んでいるように私には思える。

なにより、最後までダンデイな姿をくずさず、パリや各地を飛び回り、チャールストンなど人生をしっかり愉しんだりもして、その実、思考の人であり、鋭い論客であり続けたという、彼の歩みを頭にいれて、もう一度、最初の写真、ロースの面構えを見てほしい。、、、頼もしいではないか、、、




<追記>

「ジョセフィン・ベーカー邸」のプール、実際には、実現したものではないので、残る資料だけでは定かではありませんが、TIさんのコメントにもあるように、このプールは、側面にガラス窓が切られ、その周りにまるでプールで泳ぐ人=(ジョセフィン・ベーカーか)、を鑑賞する為かのように、ぐるりと小道が周っているということです。是非、実物をみたかった、、、

あのフロアプランから、

「エントランスから大階段を経由してパブリックなサロンへ連続させ、そこにガラスのプールを置いてパーソナルな寝室へと連続する折りたたまれた長い動線。これはジョセフィンを鑑賞するためだけの濃密でエロティックな建築です」


という読み取りは素晴らしい。この「ジョセフィン・ベーカー邸」のモデルとフロアプランがどういう経緯で出来上がったのか、実際に、ベーカーとロースの間で、これを巡ってどんな会話がなされたのか、それは今となっては知る由もありませんが、ロースはこれを、無報酬で、自分の意志でつくりあげたといいます。この辺りにも、ロースという人間の在り方を伺い知ることができるように思います。私としては、ロースという人は、その建築家としての革新と天才、タフな思考家という側面とともに、人生を愉しむユーモアと奥深さをもっていたと願いたい。


「ロース作品群は、実はこうしたうわべを排除し、本質を追求しようとした思想=スタイルによって生まれ」



これは、まさしくその通りなのですが、素直に白状すると、ロースの作品には、現在の視点でみると、「古く」見えるものもあると思います、クニーシェやカフェ・ムゼウムなどは、当時としての斬新さと革新に想いを馳せることはできても、或いは歴史的資料としての価値は別にして、それ以降のモダニズムに慣れた今の私の目には、その実体からは何らかの感動や刺激を呼び起こさせるものでは残念ながらありません。そこが、モダニズム建築の難しいところだと思います。思想と実体の在り方の難しさ。

私は、ここで取り上げた「ジョセフィン・ベーカー邸」の一種のオマージュとしての建築、「シカゴ トリビューン コラム」の思考を経た異形や、

むしろ初期の「ヴィラ カルマ」(ロース 33歳の作品、建築途中で施主の意向で別の建築家と交代する)の、黒と白と赤の大理石で飾られたオーバル型のエントリーや、赤の大理石とゴールドのモザイク天井の図書室、マホガニーと黒に白い腑が入った大理石の円柱に囲まれたバスルームという内装に魅かれてしまいます。これらは、いまなお、たっぷりと魅力を保っています。

ただ、いまも残り、そしていまだ現役として使われているクニーシェや、「アメリカンバー」をみると、コルビジェやその後のモダニズム建築に比べ、何か温かみといえる物、或いはモダニズムのイデイオムを超えたロースの嗜好を示すものがあるように思えます、

つまり、そこには、人間ロースがいて、さらにベーカー邸やシカゴ トリビューン コラムをみるにつけ、矛盾する言い方ですが、そこには、その後の「ポスト モダン」をも想起させるものがあり、ロースの建築が持つ、思想としての革新と、実体としての建築の中に組み込まれた、もっとパーソナルなロースの試みとか情感、

その「合わさった」ものがロースの「独自」なのだと思います。

そういう視点で、ロースはもっと語られても良いし、もっと評価されるべきものだと思います。

それを知るためには、「クニーシェ」や「アメリカンバー」の地平でとどまっていては、理解しにくいと思います、ジョセフィン・ベーカー邸やシカゴ トリビューン コラムまでを俯瞰すべきです。
それが、ここでその二つを取り上げた意図です。




私は、建築だけでなく時間に風化されないものに興味があります。そして、それにめぐりあえた時は、その秘密を探りたいと思っています。

確かに、ロースは「アンチテーゼ」から始まり本質を追求しようとした思考の人だと思います。人間としては本質を見極めようという姿勢を自覚していた人だと思います。そこに、私は共感を覚えます。


人生は愉しいし、せっかく得たチャンスですから、それを大いに愉しみ、「美意識」も深めていった方が「お得」です。「人生は二度」ありません。少し、気恥ずかしい話ですが、「六義庵百歳堂」を書き始めたのも、その事を、直接的に声高にいうのではなく、自分なりに愉しいサンプルの数々を提示できればという思いからです、私自身もそういった書物を探していましたし、必要としていましたから、、

六義のモノづくりも、できればお客さんに元気を与える、心を愉しくするものでありたいと願っています、


「迷ったときは歴史に学べ」、これは賢者の教えです。そして、ロースは「人生を愉しんだ」 タフなサンプルだと思います。

私も、いまだ「迷える」ひとりです、ご一緒に探っていきましょう。



TIさん、詳しいコメントありがとうございます、建築を「読書」する愉しみを再認識しました。
時あれば、また「建築の夢」について語りたいと思います。


















建築の夢
ADOLFLOOS
百歳堂 |  アドルフ・ルースとジョセフィン・ベーカー
copyright 2008 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa

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by momotosedo | 2008-08-25 01:56 | ■建築の夢

8月22日(夏日、夕べより涼しく感ず、夕立、雷鳴このところ多し) 美意識、この不条理なもの、、、  




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美意識
この不条理なもの
百歳堂 |  拘り





昨夕(21日)、雷鳴の轟くなか、A氏の来訪たまわる。
A氏は、六義のクライアントのなかでも お洒落にかけては、一、二を争うお人で、独特のスタイルを持ってらっしゃる。

それにフットワークが軽い、ブダペストに行かれたかと思えば、北京のモダンアートのギャラリー村なども覗きに行かれる、ベジタリアン(雑食の私などは尊敬の念にたえない、、)、アスレテイックな身体つき(思わず、自らのお腹をさすってみる、、、)、最近は髪の毛を短く精悍な五分刈りにされた、


そして、強い拘りがある。

A氏は紳士だから、物腰も柔らかく、もの云いも遠まわしだが、その皮膚の裏には強情な拘りが潜んでいる。これは、良いことだと思う。

何故なら、A氏の強靭な拘りは、シンプルに自分の気に入るもの、もっと云うと、自分の美意識をより高みに誘(いざな)ってくれるものを探していると理解できるからだ、、


これは、「オタク」の拘りとは違う、「オタク」が拘りと思っているのは、単に「情報」肥満に過ぎなくて、サイトなどで得た古い、悪い油で揚がった揚げ物のような「情報」を食べ過ぎてメタボリックになっているに過ぎない。ただ、流行(はやり)に左右されるだけで、そこには自らの美意識の遍歴と呼べるものは存在しない。
(それよりは、「詳しいことは知らないけれど、自分の好きなものが欲しい」と云う人の方が「幸せ」には近道するし、作り手にとっても、実はその方が恐い。)

「自分の美意識をより高みに誘ってくれるものを探す」というのは、本気でやろうと思うと大変な労力もいるし、それなりの覚悟もいる。そして、それに答えようとする相手にも恵まれないといけない。

そして、それは少し孤独な作業ではあるが、遍歴を重ね、それを高めながら生きることは自らの存在に栄養と意味を与え、大げさに言えばそれこそが生を受けた愉しみを見出すものではないかな、と思う。

それに、これほどのグローバリゼーションがすすみ凄いスピードで変わりつつある社会を、自分を見失わないで幸せにサヴァイブするためには、「強靭な美意識」こそ唯一頼りにできる装備なのかもしれないと、常々思う。
怒られるかもしれないが、ひところの「スローライフ」などの、アンチテーゼをすればO.K.、逆戻りすれば良い、というクリエイテイブな発想のない「安全な後退策」では元気にはなれないのだと思う。


さて、本日のA氏の拘りは?、、、




f0178697_0431552.jpg「テーラー六義」のサイトで「Made to Measure」を見て、気になったということで、このクラッシック3ボタンを試着されると、不思議に肩、胸周りがA氏にぴったりだった。

それで、選ばれた生地は、私が大切にしていた英国製ビンテージの細かいハウンドツースに赤のオーバープレイド。ハウンドツースは薄いグレーと黒の配色になっている、

六義の生地コレクションは、ひとつひとつ私が各地を旅して選んでいったもので、自分でもよく集められたと思っている、大久保からは、何回も、自分の本当に気に入っているものは隠しておくようにとアドバイスを受けているのだが、

正直な私は、それはアンフェアではないかとそれが出来ないでいる。今回も、少し悔やむ。
でもA氏なら生地も本望か。と自分を納得させる。

前回のA氏につくった、ビスポークスーツ、ピークドラペル、ひとつボタン、ダブルウエストコートのときも、ビンテージの非常に良い糸のチョークストライプを奪われ(?)た、しかも、裏地には、70年代のマルチストライプのオルタリーナのシャツ地を、あまりにぴったりだったので、自ら供してしまった。







f0178697_0435482.jpgおもしろいなと、思ったのは、三つ揃いとともに、それに合わせて、もう一着、ダブルブレステッドのオッドベストも頼みたいと云われたことで、これは着巧者の云うことだなと思った、良いアイデアです。

さて、どんな色が?そこで、選んだのが、これも今はなかなか見つからない、大切にしていた英国のトラデイショナルなカントリースタイル、ビンテージの「ハンテイング ピンク」。これも、少し、悔やむ、、、しつこいか、、

さて、生地が決まったところで、細部の調整、3ボタンは少し低めに落として、スラントはより角度をつける、ラペルはフィッシュマウスにする、裾幅は少し狭めにして、袖のカフはそのまま、、、話し合いながら、次々と、デイテールが決まっていく、、、ここがオーダーメイドの愉しい時間、、、、イメージのなかに、なかなか素敵な、少しビクトリアンなハウンドツーススーツが出来上がる、、、









f0178697_044276.jpg極めつけは、2足目となる、この少しヒネッタ、ボタンアップモンクのビスポークシューズ。

これは、仮縫い靴だが、実際には独特の「ムーンタンニング」という手法でグレーの濃淡に仕上げられる。その「ムーンタンニング」を美しく見せるために、真珠貝のアンテイークボタンを使った(仕上がりには、湖を思わせるブルーに染めたアンテイークボタンがつけられる)ダンデイズムの匂いのするモンクシューズをデザインした。クラッシックさと、捻ったスタイリッシュさが入り混じった姿は、A氏にふさわしいと思う。そして、「やりすぎ」に陥らない、あくまで「ムーンタンニング」の美しさを引き立たせるエレガントな表情、、、ここが、大切、

しかも、これには、最終的にルシアンレザーのように細かいダイヤモンドインレイを全体に施して欲しいというご注文。これは、大久保が一本づつ、細かくコテを使って皮に刻んでいくとことになる。気の遠くなるような作業。

完成時の靴に飾られる、ブルーの真珠貝のアンテイークボタンは、私のボタンコレクションから供される。これは、いまやロンドンのマーケットにも見当たらないものなのですがね、、、言いだしっぺは私なのですが、、、

そして、トウシェイプ、「F1のレーシングカー知っていますか?」
そのF1の何とか云うレーシングカーの先っぽ、膨らんで落ちていくシェイプ、それを確認するために、大久保はサイトを調べ、机の前にはおよそ靴屋らしくないF1カーの勇姿がピンアップされていく、、、

大久保と二人で、この靴について話し合っているとき、ダイヤモンドカットはコテで一本、一本、刻むしかないという結論に、いみじくも、大久保は叫びましたね、

「やってやろうじゃないか!」
(六義は、見た目よりもけっこう男っぽいチームです、、、)


、、、大久保も私も、正直、A氏を愛していますね、それにA氏は愛される人柄だと思います、


好奇心はネコをも殺す、、クライアントの美意識は職人を育てる、、、。

それにしても、「美意識」、この不条理なものよ、、、



(*A氏のご承諾を頂いて、拙文ができました。快いご承諾ありがとうございます。通常は、クライアントの方についてブログに記すことを良しとしませんが、気になる方だったので、ご承諾を得てご紹介いたします。
A氏とは、スタート以来のお付き合いで、いつもお会いすると話題がつきません。今回も、70年代にサビルローでご注文された服を愛する父上のお話など愉しいひと時を過ごさせて頂きました。重ねて、御礼を申し上げます。 百歳堂 敬白)









HARD TALK
美意識
この不条理なもの
百歳堂 |  拘り
copyright 2008 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa

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by momotosedo | 2008-08-23 03:46 | ■dandy style

8月20日(夏日)  「クニーシェの150年」





An Aesthete's Lament 
Knize

百歳堂 |  クニーシェの150年




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ウイーンのテーラー「クニーシェ」から、創立150周年を祝う、デイナーパーテイの招待状が届けられた。

会場は、1区のアルベルテイーナ美術館内のハプスブルグステイトルーム(あのウエッジウッドの間など、歴史的な部屋がそのまま保存されている部分)。時はウイーンの秋の或る日の夕刻。

クニーシェも150年、

会場のアルベルテイーナ美術館は、ご存知の通り世界でも有数の美術コレクションをもつことで知られている、
これらは、主に最初の持ち主だったアルバート公爵とその妻(マリーテレジアの最愛の娘)マリー・クリステイヌによって集められたということで、1916年までは、その末裔のフリードリッヒ公爵の個人の持ち物だった。
絵画コレクションの数だけで、6万点、歴史的な版画類になると100万点ぐらいあるらしいから、それが個人の所有というのは、確かに、たいしたものだった。
アルベルテイーナー美術館、そしてそれを巡る歴史に現れる人物たちは、なかなか興味深いのだが、ここで話し終えるにはウイーンの歴史は深すぎる。



クニーシェが、もうひとつのテーラー 「C.F.フランク」との共同体であることは、あまり知られていない。「C.F.フランク」はプリンス オブ ウエールズ時代のエドワード7世のロイヤルワラントも受けている老舗で、それは、いまもクニーシェのアトリエに飾られている。現在のマスターテーラー、ニードルスース氏は、もともとはこちらの流れを引き継ぐ人だ。


C.F.フランクどころか、クニーシェの名前すら、六義を始めた3~4年前には誰も知る人はいなかった。六義をスタートさせたころに、雑誌の取材をいろいろ受けるなかで、どこで、スーツを作っているかとか、どこの靴が好きかとか聞かれて、「クニーシェ」や「ルドルフ・シェア」の名を出しても、マスコミの人で知る人はいなかった。


「ラスト」と言う雑誌で、個人的な靴のコレクションを取材されたとき、思い出深い靴というので、「シェア」のボタンアップブーツを取り上げたことがきっかけで、ラストは、東欧特集をくみ、シェアが雑誌で紹介されることになった。

ウイーンで、もうひとつ頼んでいるのが、通りに隠れた一軒の帽子屋で、これは驚くべきクラッシックな製法、素材でいまも営まれている。
多分、ロンドンやパリが失ったものがそこにいまだある。なにしろ、帽子を飾るシルクリボンひとつでも、そのストックがすごい。それらは、100年ほど前のものも含めて、もはやアンテイークともビンテージともいえるもので、それを見てるだけでもあきない。


クニーシャやシェアに魅かれるところは、その作り上げるスーツや靴だけでなく、その人たちの「品の良さ」で、街に良き時代の人柄とか気質が、いまだ残っているのがウイーンの良さだと思う、これは、ロンドン、パリ、ローマ、ウイーンと移動生活を送っていると自ずと浮き上がってくる。


カードには、私の名前と末尾に「Frau」とあるのは、「〇〇様とその女性」、つまり女性同伴ということでこれはヨーロッパの社交の慣用ですね、、、そういえば、ロンドンの悪友はあれからどうしたろう、、、








copyright 2008 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa


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by momotosedo | 2008-08-20 17:16 | An Aesthete's Lament

8月17日 (雨、涼しく思ゆ)   イーヴイリン・ウオーの「教え」





言葉をめぐる冒険
Evelyn
Waugh
百歳堂 |  イーヴイリン・ウオーの「教え」





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猛暑の或る日、篭った空気にむせかえる私の書庫の書棚のもうひとつ奥から陽にやけて黄色くなった吉田健一訳のイーヴイリン・ウオー「ブライドヘッドふたたび」をみつける。その黄ばみも、この物語にふさわしい、折り角、映画化されたそれを見たばかり(海外では7月から上映、日本では未公開)という偶然もあって私は再読をし始めた。


イーヴイリン・ウオー、たしかに英国を代表する作家、そしてグレアム・グリーンと同じく英国の「カトリシスム作家」。



16世紀の宗教改革以来、英国国教会をもつ英国においてカトリックであることは、やはり少数派で、結婚するのにも影響があるのは今も同じ事情だろうが、19世紀あたりまでは異端として差別もされ、オックスフォード、ケンブリッジへの入学も許されず、公職につくことにも差し障りがあったと聞く。




そうしたなかでウオーは1930年に英国聖公会からカトリックに改宗している。この「ブライドヘッドふたたび」もマーチメイン侯爵というカトリックに改宗した貴族(彼は夫人と結婚するために改宗した、)の家族の行く末を主人公の回想で綴っていく。




このウオー自身の背景もあって、1945年に出版された「ブライズヘッドふたたび」はしばしばウオーの「護教的」作品と評されている。そして、もうひとつ。この物語は、実在の場所、実在のモデルに基づいて書かれたともいわれる、物語の舞台となるマーチメン侯爵の館ブライドヘッド城はヨークシャーにあるカーライル伯爵の邸宅 Castle Howard がモデルとされ、この物語の登場人物も、ウオーの身近にいた人物がモデルで、当然、そのひとつには、ウオー自身の影がある。(ウオー自身もオクスフォードに学び、妻は貴族の出自で、自身も上流階級にいた、)



実在のモデルを持つ登場人物たちと、改宗した「カトリック」を抱えて、ここでウオーは、何をどう語っていくのか、



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ウオーの作品に共通するのは、当時では度が過ぎるとも評された特有の皮肉や、ときにニヒリステイックともいえる救いの見えない物語の結末で、それはこの物語も例外ではない、


前半部分の輝くような20世紀初頭の貴族の館の生活と、大戦に至る前のわずかなベルエポックの時代に魅力的な美少年セバスチャンと主人公がオクスフォード、ベネチアに躍動する眩さ、それは当時の「輝ける若者たち」を最も美しく描写したひとつで、誰しも魅力を感ぜずにはいられない、




しかし結末にいたる物語の後半には、救いのない悲しみが待ち受けている。
主人公たちは、往時の眩さを無頓着に投げ捨て無為にそれぞれの悲惨な結末を迎える。その悲しさの種類は、大切にしていた繊細なベネチア細工を誤って床に落とし、粉々に砕いてしまうような行き場のないやりきれなさで、己の無防備さが招いた諸行といえる、それは、前半の眩さゆえに、存外、読む者の心に沁みて、思わず悲嘆の声をあげさせる。



イーヴイリン・ウオーという作家は巧みで、この物語もマーチメイン侯爵に最後の秘蹟をほどこすために呼ばれたマカイ神父の言葉「神は正しき者を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせようとして来るのです」で、眩いはずの登場人物たち全てが無為なまま悲惨ともいえる最後を迎える謎を解く。それが、この物語でウオーが用意した知的に捻じ曲がったカトリシスムの捉え方で、これは精神の物語を綴ったウオーなりの「教えの書」なのだ。




映画の方は、80年代にジェレミー・アイアンズ主演でグラナダTVでシリーズ化されたものの印象が強く、この物語を映画の2時間ほどという尺でまかなうのには不満が残るというのが正直な感想だった。ただ、貴族の館の設えなど映像は充分魅力をもっている。



この物語は、映像化されたとき前半の眩さが魅力を放つ、とくにTVシリーズは評判も良く、小説でもモデルとなったヨークシャのCastle Howardでロケを敢行している。

ただ、いまの私は、正直なところイーヴイリン・ウオーは少し苦手かな、その皮肉を読み続けるには他の作家の愉しみが多すぎる。


ただ、それだけ心に残る作家で、ちょうど再読し始めていた時期に、「テーラー六義」の 「Made to Measure」のプロジェクトを抱えていた私は、気が付くとノスタルジックな少し文学的(?)な英国の三つ揃いを作り始めていた。どうしても、それが頭について離れなかったのだ。



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さて、TIさんからコメントを頂きました。TIさんありがとうございます。



「Made to Measreとは興味深い。ビスポークでないと表現できないものかと思っていましたが。
さらにイヴリン・ウォーというのも更に興味深い。劇作家中心のようですね」。



「Made to Measure」の自分なりの解答を見つけ出すのには、手間がかかりました。ただ幸
いだったことは、日本のテーラーの製図能力の高さと緻密さです。これは、再認識いたしました。


そして、気が付いたのは、フィッテイングの精密に迷うよりは、むしろ服の雰囲気をどこまで表現できるか、守れるかに集中した方が、「Made to Measre」としての効果と魅力が生まれるということです。そのなかで、フィッテイングの問題は自ずと解答を見いだしていきます。


とくに、今回は、イーヴイリン・ウオーのおかげで(?)、ノスタルジックな英国の三つ揃いという明確な方向があったので、仕事の集中の的が絞れました。それと、形見分けで取っておいた祖父の当時の服も、その時代のテーラーの仕事を確認するのに助けてくれました。(物持ちの良いのは、我が家の伝統です。)

機会があれば、一度お試しください。




「劇作家中心」というよりは、「カトリシズム」つながりですね。

若い時分、ヨーロッパに遊んでいた私は、自分なりにヨーロッパを捉えようとしていたのですが、そのなかで自分の体感として欠けているもの、つまり宗教を捉えるために、カトリシズムの作家を意識的に読み続け、各地の教会や聖堂に通い続けたことがあります。

ウオーの「ブライドヘッド ふたたび」に登場する、英国におけるイエズスの牙城、メイフェアのファームストリートチャーチにも行ったことがあります。一時のことで、どこまで、理解できたかは疑問ですが、得るものはありました。


イーヴイリン・ウオー、心に残る作家ではあります。

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by momotosedo | 2008-08-17 18:13 | ■言葉をめぐる冒険

8月16日(猛暑日、夕立)  MADE TO MEASURE





Correct Style & Timeless Quality
MADE TO MEASURE

百歳堂 |  Brideshead Revisted   メイド トウー メジャー スーツ



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この秋からスタートする(銀座1丁目では8月20日より)「MADE TO MEASURE SUITS」(ハンドメイド、ただし仮縫いなし、ただし仕上げ後にアルタネーション<修正>あり 税込み価格¥207900~ ただし生地によって価格が異なることがあります。)。


パターン オーダーとは違う、純正のハンドテーラード。仮縫いがない分、独特の採寸をします。いろいろ考えましたが、スーツは、オフ ザ ラック(レデイ メイド)よりも、この方法がより正直なものができるように思いました。


モデル(デザイン)は、毎回、私のコレクション(アーカイブ)から選んだものを取り上げることにしました。


今回は、少しノスタルジックな、英国のクラッシックなスリーボタンの3ピースです。コレクションモデルでは、少し変わったショールカラーのウエストコート、上着の袖にはカフがついていますが、それは、お好みで変更もできます。
ノッチドラペルの代わりに、ピークドラペルにしてみても洒落ていると思います。


この3ピースは、この7月に公開されたイ-ヴリン・ウオーの原作、映画「ブライズヘッズふたたび」にあるような、ノスタルジックな英国を思わせるものです。裾をまっすぐにカットした、ショールカラーのウエストコートは、その時代に、祖父が実際に着ていた物を参考にしました。


*ただし、かなり特徴的な体型の方には、メイド トウー メジャーはお勧めできない場合もあります、どちらにしても採寸時に問題点はあらかじめお知らせいたします。





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by momotosedo | 2008-08-17 01:21 | NEWS

8月14日(猛暑日)  グローバリーゼーションとスタイルについて その1





HARD TALK
Style

百歳堂 |  スタイルについて



わたしは、主にロンドンとパリと、ウイーンとローマのテーラーで服を頼んできた。これは、時系列というわけでなく、各都市毎にテーラーと付き合ってきたということで、服や靴だけでなく、その他、生活に必要なものも各都市毎に決めて継続的に付き合ってきた。

これは常にその都市の間を移動してきたからで、事情によって一週間もたたないうちに別の都市へ移動したり、或いは何ヶ月もそこに居つくこともあった。その都市を拠点にして、郊外や田舎に出掛けたりもする。

とにかく、好きな時に、好きな場所に出掛けるというのを身上としているので、余計なことにストレスを感じたくない。しかし、自分のライフスタイルは崩したくない。そうなると、自ずとそのスタイルに必要な各々はその専門家にまかせた方が良いし、楽だということになる。




ロンドンでは、学生時代からの付き合いである「デンマン&ゴダード」、サビルローの変容に少し失望してからは、それにソーホーの3つのテーラーが加わった、パリでは、今はない「バーソローミュー」と「チフォネリ」(チフォネリは、ローマーのカッターが良かったので、後ではローマで頼むようになった。)、ウイーンでは、祖父が顧客だったこともあり、「クニーシェ」、ローマでは、前述の「チフォネリ」。靴屋も同様に決めていた。


先ず、現地につくと靴とスーツをクラブ或いはホテルのフロントに預け、靴屋とテーラーに連絡をとる。翌朝には、スーツにはプレスがあてられ、靴は踵に新しいラバーが張られピカピカになって戻ってきている。

もうひとつ、必要なのは、「ジェントルメンズクラブ」である。歴史のあるクラブは横でつながっている。私はロンドンの或るクラブのメンバーだが、英国内だけでなく、パリ、ニューヨーク、ワシントン、など世界のある程度の都市にその関連のクラブがある。

一人旅のときは特に、できるだけ私はそういうクラブに泊まる。なかには、オーバーナイトルームを持たないクラブもあるけれど、その場合も、できるだけ各地のクラブを覗くことにしている。
それは、必ずバールームに友人がいたり、また新しい友人をつくることができるからで、それだけでなく各クラブは、メンバーのために各種のイベントや、トークデイナーなどを定期的に催しているし、ホテルのコンシェルジェより優れた交渉力があったりする。

それだけでなく、その地で歴史のあるクラブは、それ自体が美しい建物や室内を持っている。

そして、「クラバブルな装い」と言う言葉があるように、クラブに出掛けるというのは、それにふさわしい装いを必要とする。ずいぶんとカジュアルになったとはいえ、いまでも英国のクラブには、ツイードのシューテイングジャケットは許されないクラブもあるし、メインダイニングでは、たとえ起きぬけの朝食でも、タイの着用を求められる。「ドレスコード」がいまだあるのだ。

つまり、私のライフスタイルには、スーツとネクタイとドレスシューズが必要なのだ。

で、こうした生活をしていると同じスーツやネクタイ、ドレスシューズでもどういったものがふさわしいか、或いは一目おかれるか、または洒落て見えるかというのがはっきりしてくる。



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by momotosedo | 2008-08-14 00:29 | ■テーラリングの旅

8月12日(猛暑日)  2009年7月22日





An Aesthete's Lament 
2009
年7月22日
百歳堂 |  宇宙が伝えたいこと



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久しぶりに、ハイスクール時代からの友人からメールをもらった。彼と出会ったのは、学校の図書室で、私は一時、「20世紀の知的冒険」(貸し出し不可の古い本で、著者名はもう忘れてしまった、ヨーロッパの哲学者の誰かだったと思う。刺激的な文章に魅かれたのだ。山口昌男の同名著書とは全く別物)という本に夢中で、ことあるごとにそれを読みに通っていた。

その、図書室でいつも天気図を開げていた少年が彼で、興味を覚えて声をかけたのがきっかけだった。彼は、そのころから天文学者、或いは気象学者になることを目指していた。かなり、確固とした意思で、そして、事実そうなった。

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彼のメールは、8月1日の皆既日食についての報告と、2009年7月22日に約46年振りに日本の皆既日食帯でそれが見られるから一緒に見に行こうというものだった。(写真は、国立天文台のHPから転載)


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何でも、日本で皆既日食が見られるのは、1963年7月21日の北海道東部で見られた皆既日食以来だという。ちなみに、次回は2035年9月2日に北陸・北関東などで見られるという。当たり前なのだろうけれど、そんなにきっちり日付と場所まで決まっているとは思わなかった。


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彼がいうには、一度、皆既日食を目の前で体験すると考えが変わるという。彼は、科学者だから、そんなにロマンチックではないので、それまでの「考え」が「リセット」されると表現していた。

人間は、自分の想像以上に大きな考えに触れると変わる。または、それに魅かれて、影響を受ける。

それが、ハイスクール時代の私には、一冊の書物だったし、彼にとっては天気図だったのだろう。皆既日食を体験するということも、宇宙という大きな考えに触れるということで、溜まった雑念が「リセット」されると言うのは想像できる。

太古の昔から、人は太陽と天体に教えられてきた。

「水」の問題もそうだが、いまのひねくれて複雑になってしまった現代人の心も、軽くひねってしまうような新しいアプローチの「大きな考え」が、そろそろ必要なような気もする。それは、エコとか京都議定書とかとも違うような気もするのだが、、、


2009年7月22日、愉しみにしていよう。









SWEET MY LITTLE REAL LIFE
2009
年7月22日
百歳堂 |  宇宙が伝えたいこと
copyright 2008 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa











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by momotosedo | 2008-08-12 15:41 | An Aesthete's Lament

8月10日(猛暑日、夜半より雨)  夏の雨の夜は、クーラーを利かせてワインを愉しもう。



 
読書は愉し
最後
の一瓶
百歳堂 |  或るワイン愛好家の悲劇







ビンテージワインの愛好家(それも、1000本以上のコレクションを自宅にもつ、エリート愛好家)の集まりである「アソシアシオン ドウ ラ・カーブ(カーブ 協会)」が発行する、一種の機関紙「ラ・カーブ」(一般には売られていない、原則的に協会員へクラレット色の封筒に入れられて毎月送られてくる、、)には名物コラムがあって、それは各界のワイン通が、「これまでに味わった最高のワイン」について語るもので、それは発行以来ずっと連載され続けている。


とくに、愉しみにしているのは毎年一回、特別編として、そのコラムに登場した世界のワインの権威によって投票される現存する最高のワインについての、極くマニアックなランキングリストである。ワインは要は、楽しく、おいしく味わえればそれで良いのだが、それでも、こういったリストには夢をさそう魅力がある。


「現存する」というのと、投票者が実際に「味わった」ことが前提とされていて、これは、「ラ・カーブ」の編集部が執拗な調査を行う。つまり、最高のワインのひとつといわれるリシュプールの1923年ものは当初何本生産され、いま世界で推定何本あるのか、そしてそれはどこに在るのか、或いはもうひとつの最高峰とされるロマネ・コンテイの1934年ものは、、、ただ、ワインにも寿命というのがあるらしく、もちろん保存状態によるにしても、50年ぐらいが目安らしい。ブルゴーニュワインには、もっと長く良い状態を保った例もあるらしい。


ビンテージワインのコレクターというのは、昔からヨーロッパには根強くいる。それは、ワインは文学や美術や音楽と並んで、ひとつの「高尚な教養」と考えられているからで、しかも、名高いビンテージワインは宝石に比するほどの高値で取引される、「投資」という側面もあるのだ。事実、サザビーズでもビンテージワインのオークションをときおり設けている。

もともと、貴族たちの城には必ずワインカーブがあり、そこには歴代からのワインがコレクションされている、それだけでなく例えば、「ロマネ コンテイ」自体も18世紀の仏ブルボン王朝のコンティ公爵の所有から名づけられた事からも分かるように、多くの葡萄園そのものが貴族たちの領地だったのだ。(ちなみに、コンティ公爵と、この葡萄園をめぐる争奪戦を演じたのは、ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人だった。)つまり、ヨーロッパのビンテージワインには、奥深いアーカイブが存在する。


だから、ごくたまに、驚くべきものが市場に現れることがある。そのひとつが、ニュイ・サン・トアンの1929年物、


コレクターの垂涎の的、伝説としてその名を知ってはいても、おそらく今生きている愛好家の誰も味わったことがない幻のワイン、なぜなら、生産量そのものが葡萄園の記録によると僅か40ダースにすぎないのだ。(希少性で知られる、あのロマネコンテイでも、現在の生産高は順調な年で7,000本程度、不調な年でも4,000本程度、)そして、それは長い年月を経て、方々に散らばっていった、、、






、、、実は、、、この、ニュイ・サン・トアンの1929年物、実在のワインではありません。「ラ・カーブ」というワイン雑誌もフィクションです。これは、スタンリー・エリンが創作した幻のワインの最後の一瓶をめぐる巧妙な物語のために用意されたもの。(スタンリー・エリン<1916~1986>は、ケイリー・グラントが主演したヒッチコックの「断崖」の原作者、)


物語の登場人物は、「ラ・カーブ協会」のパトロンでもあるヨーロッパ有数の富豪、キロス・カッスラー、そして彼のワインの指南役であるマックス・ド・マルシャン、マルシャンは機関紙「ラ・カーブ」の編集長でもある、熱に冒されたような病的なワイン愛好家。ワイン談義に熱中すると心臓病を持病にもつくせに興奮してしまう。そのせいで、いつもニトログリセリンを持ち歩いている。

そして、富豪カッスラーの年若い妻、ソフィア・カッスラー。夫とは娘ほども年が離れている、偉大な夫に少しおどおどしていて、優しい性格の、色白の慎み深い美人。しかし、グラマラスな姿態。

おっと、主人公を忘れるところでした。ムッシュ・ドウルモン、ワイン販売を手がける「プルレ・ドルモン」を経営する分別もある正直なワイン商。

さあ、登場人物は揃いました。


ある日、ドウルモンが経営する会社に、ド・マルシャンがやってくる。「ラ・カーブ」の編集長という肩書きに興味をひかれて、ドウルモンは、ふいの訪問にもかかわらず会うことにする。ところが、このド・マルシャン、どうもいけ好かないヤツだ。

「ラ・カーブ」恒例の「最高のワイン」についての意見が聞きたいというド・マルシャンに、つい、その横柄な態度をくじきたいという誘惑に駆られてドウルモンは、地下の保存庫にアノ幻のワイン、ニュイ・サン・トアンの1929年物が眠っていることを漏らしてしまう。


そうと聞いたド・マルシャンは、黙ってはいられない。

自分にはパトロンのカッスラーという富豪がいる、是非、彼にその最後の一瓶を売って欲しい。しかし、ドウルモンは分別のあるワイン愛好家で、ロマンチックな一面ももっていた。これは、売り物ではないのだ、ああいうワインは、ただ存在していることに意義がある、それに、既に老化していて、ただのダメになったワインである可能性だってある。つまり、封を切らない限りは、貴重なすばらしい宝物であり続けることができる。そっと、しておくのが一番なのだ。


それでも諦めず、うるさくつきまとう ド・マルシャンに閉口して、諦めさせるために10万フランという法外な値段を、ドウルモンは言い渡す。10万フランとは、いかにも法外だ。


しかし、ド・マルシャンはカッスラーに進言してドウルモンをカッスラーの広大な屋敷に招待する。

意外にカッスラーは、寡黙な魅力のある男だった。しかし、ドウルモンも最後の一瓶を売り渡すつもりはない、カッスラーもそれを了承する、かえってカッスラーは、ドウルモンの知識と人柄に興味を示し、二度とそのワインのことは持ち出さないという条件で、カッスラーとドウルモンの交友が始まる、、、


しかし、それから数ヶ月がすぎた頃、カッスラーとド・マルシャンが、会社を訪れてくる、10万フランでも良いから、あの最後の一瓶を売って欲しい、あのワインこそが妻との結婚記念日にふさわしい供物だ、ついに、ドウルモンは、10万フランの小切手を受け取る、、、、



さあ、ここからが、この物語の真骨頂です、貴方は、ここからどんな物語を想像するでしょうか?

この短編は、1968年2月に「エラリー クイーン ミステリーマガジン」に初出されて以来、ワインをめぐる「奇妙な味の小説」としてウルサ型の読書家にも傑作と愛されてきました、、、



あっ、言い忘れましたが、残念な事にこの短編集、既に絶版になっていて、もう手に入りません。スタンリー・エリンも古い作家ですからね、古本を探しても見つかるかどうか、、、私が持っているのが「最後の一冊」かも、、あなたがどうしても読みたいというのならお譲りしても良いのですが、、、、イヤイヤ冗談です。探せばあると思います、、、、ああ、読書は愉し。











読書は愉し
最後
の一瓶
百歳堂 |  或るワイン愛好家の悲劇
copyright 2008 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa








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by momotosedo | 2008-08-11 02:53 | ■読書は愉し