カテゴリ:■読書は愉し( 7 )

8月10日(猛暑日、夜半より雨)  夏の雨の夜は、クーラーを利かせてワインを愉しもう。



 
読書は愉し
最後
の一瓶
百歳堂 |  或るワイン愛好家の悲劇







ビンテージワインの愛好家(それも、1000本以上のコレクションを自宅にもつ、エリート愛好家)の集まりである「アソシアシオン ドウ ラ・カーブ(カーブ 協会)」が発行する、一種の機関紙「ラ・カーブ」(一般には売られていない、原則的に協会員へクラレット色の封筒に入れられて毎月送られてくる、、)には名物コラムがあって、それは各界のワイン通が、「これまでに味わった最高のワイン」について語るもので、それは発行以来ずっと連載され続けている。


とくに、愉しみにしているのは毎年一回、特別編として、そのコラムに登場した世界のワインの権威によって投票される現存する最高のワインについての、極くマニアックなランキングリストである。ワインは要は、楽しく、おいしく味わえればそれで良いのだが、それでも、こういったリストには夢をさそう魅力がある。


「現存する」というのと、投票者が実際に「味わった」ことが前提とされていて、これは、「ラ・カーブ」の編集部が執拗な調査を行う。つまり、最高のワインのひとつといわれるリシュプールの1923年ものは当初何本生産され、いま世界で推定何本あるのか、そしてそれはどこに在るのか、或いはもうひとつの最高峰とされるロマネ・コンテイの1934年ものは、、、ただ、ワインにも寿命というのがあるらしく、もちろん保存状態によるにしても、50年ぐらいが目安らしい。ブルゴーニュワインには、もっと長く良い状態を保った例もあるらしい。


ビンテージワインのコレクターというのは、昔からヨーロッパには根強くいる。それは、ワインは文学や美術や音楽と並んで、ひとつの「高尚な教養」と考えられているからで、しかも、名高いビンテージワインは宝石に比するほどの高値で取引される、「投資」という側面もあるのだ。事実、サザビーズでもビンテージワインのオークションをときおり設けている。

もともと、貴族たちの城には必ずワインカーブがあり、そこには歴代からのワインがコレクションされている、それだけでなく例えば、「ロマネ コンテイ」自体も18世紀の仏ブルボン王朝のコンティ公爵の所有から名づけられた事からも分かるように、多くの葡萄園そのものが貴族たちの領地だったのだ。(ちなみに、コンティ公爵と、この葡萄園をめぐる争奪戦を演じたのは、ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人だった。)つまり、ヨーロッパのビンテージワインには、奥深いアーカイブが存在する。


だから、ごくたまに、驚くべきものが市場に現れることがある。そのひとつが、ニュイ・サン・トアンの1929年物、


コレクターの垂涎の的、伝説としてその名を知ってはいても、おそらく今生きている愛好家の誰も味わったことがない幻のワイン、なぜなら、生産量そのものが葡萄園の記録によると僅か40ダースにすぎないのだ。(希少性で知られる、あのロマネコンテイでも、現在の生産高は順調な年で7,000本程度、不調な年でも4,000本程度、)そして、それは長い年月を経て、方々に散らばっていった、、、






、、、実は、、、この、ニュイ・サン・トアンの1929年物、実在のワインではありません。「ラ・カーブ」というワイン雑誌もフィクションです。これは、スタンリー・エリンが創作した幻のワインの最後の一瓶をめぐる巧妙な物語のために用意されたもの。(スタンリー・エリン<1916~1986>は、ケイリー・グラントが主演したヒッチコックの「断崖」の原作者、)


物語の登場人物は、「ラ・カーブ協会」のパトロンでもあるヨーロッパ有数の富豪、キロス・カッスラー、そして彼のワインの指南役であるマックス・ド・マルシャン、マルシャンは機関紙「ラ・カーブ」の編集長でもある、熱に冒されたような病的なワイン愛好家。ワイン談義に熱中すると心臓病を持病にもつくせに興奮してしまう。そのせいで、いつもニトログリセリンを持ち歩いている。

そして、富豪カッスラーの年若い妻、ソフィア・カッスラー。夫とは娘ほども年が離れている、偉大な夫に少しおどおどしていて、優しい性格の、色白の慎み深い美人。しかし、グラマラスな姿態。

おっと、主人公を忘れるところでした。ムッシュ・ドウルモン、ワイン販売を手がける「プルレ・ドルモン」を経営する分別もある正直なワイン商。

さあ、登場人物は揃いました。


ある日、ドウルモンが経営する会社に、ド・マルシャンがやってくる。「ラ・カーブ」の編集長という肩書きに興味をひかれて、ドウルモンは、ふいの訪問にもかかわらず会うことにする。ところが、このド・マルシャン、どうもいけ好かないヤツだ。

「ラ・カーブ」恒例の「最高のワイン」についての意見が聞きたいというド・マルシャンに、つい、その横柄な態度をくじきたいという誘惑に駆られてドウルモンは、地下の保存庫にアノ幻のワイン、ニュイ・サン・トアンの1929年物が眠っていることを漏らしてしまう。


そうと聞いたド・マルシャンは、黙ってはいられない。

自分にはパトロンのカッスラーという富豪がいる、是非、彼にその最後の一瓶を売って欲しい。しかし、ドウルモンは分別のあるワイン愛好家で、ロマンチックな一面ももっていた。これは、売り物ではないのだ、ああいうワインは、ただ存在していることに意義がある、それに、既に老化していて、ただのダメになったワインである可能性だってある。つまり、封を切らない限りは、貴重なすばらしい宝物であり続けることができる。そっと、しておくのが一番なのだ。


それでも諦めず、うるさくつきまとう ド・マルシャンに閉口して、諦めさせるために10万フランという法外な値段を、ドウルモンは言い渡す。10万フランとは、いかにも法外だ。


しかし、ド・マルシャンはカッスラーに進言してドウルモンをカッスラーの広大な屋敷に招待する。

意外にカッスラーは、寡黙な魅力のある男だった。しかし、ドウルモンも最後の一瓶を売り渡すつもりはない、カッスラーもそれを了承する、かえってカッスラーは、ドウルモンの知識と人柄に興味を示し、二度とそのワインのことは持ち出さないという条件で、カッスラーとドウルモンの交友が始まる、、、


しかし、それから数ヶ月がすぎた頃、カッスラーとド・マルシャンが、会社を訪れてくる、10万フランでも良いから、あの最後の一瓶を売って欲しい、あのワインこそが妻との結婚記念日にふさわしい供物だ、ついに、ドウルモンは、10万フランの小切手を受け取る、、、、



さあ、ここからが、この物語の真骨頂です、貴方は、ここからどんな物語を想像するでしょうか?

この短編は、1968年2月に「エラリー クイーン ミステリーマガジン」に初出されて以来、ワインをめぐる「奇妙な味の小説」としてウルサ型の読書家にも傑作と愛されてきました、、、



あっ、言い忘れましたが、残念な事にこの短編集、既に絶版になっていて、もう手に入りません。スタンリー・エリンも古い作家ですからね、古本を探しても見つかるかどうか、、、私が持っているのが「最後の一冊」かも、、あなたがどうしても読みたいというのならお譲りしても良いのですが、、、、イヤイヤ冗談です。探せばあると思います、、、、ああ、読書は愉し。











読書は愉し
最後
の一瓶
百歳堂 |  或るワイン愛好家の悲劇
copyright 2008 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa








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by momotosedo | 2008-08-11 02:53 | ■読書は愉し

8月5日(場所によって大雨、) 「読書は愉し」 オズワルド・ヘンドリックス・コーネリアス



読書は愉し
Osward
Hendrix Cornelius
百歳堂 |  或る英国人の肖像






オズワルド・ヘンドリックス・コーネリアス。

残念なことに既に、故人となってしまった。パリに邸宅をもつ、財産家。そして、生涯、独身を通した。パリの壮麗な館にいるよりは、旅に在る日々の方が多く、あらゆる国を巡った。偉大な旅行家として知られている。青い眼に長身、痩躯でエレガントな物腰。

19世紀、イタリアオペラの愛好家で、ドニゼッテイ、ヴェルデイ、ポンキェルリについての著作がある。明成化時代の青釉壷(せいゆうこ)の世界的権威。そのコレクションは、数は少ないながら名品揃いといわれている。

ウオーキングステッキのコレクションでも名を馳せていた、そのすべてが歴史上の名高い、或いは悪名高い人物ゆかりのものだった、シベリウス、ミルトン、ファルーク王、デイッケンズ、ロベスピエール、オスカー・ワイルド、、、百数本に及ぶそれらは、居間から寝室に通じる廊下の飾り棚に整然と並べられていた。


そして、オズワルド・ヘンドリックス・コーネリアスは特異な「名声」も得ていた、並はづれた漁色家。彼の「旅行」には必ず、その土地、土地の女の影があった。

そして、蜘蛛の蒐集。正確にいえば蜘蛛、蠍、ムチサソリを含む蛛形綱の蒐集。この分野における博物学的な知識と何百にも及ぶコレクションは、個人のものとしては世界最大級といわれている。

蜘蛛に対する偏愛は、彼にパリ郊外の別荘の敷地に何千匹という蜘蛛を飼うためだけの温室を作らせるにいたった。
変わっているのは、蜘蛛が吐き出す糸は、蚕が紡ぎだす絹糸よりも上質だというのが持論で、なんと彼は、その「蜘蛛の温室」で蜘蛛の生糸を自ら採取し、それをアヴィニョンの織り工場へ送り、糸繰り、洗い、染めをへて蜘蛛の布地を織らせていたことである。

その布地は、そのままパリのルドラペにあった有名な紳士服飾店「シュルカ」(ノエル・カワードもそのシルクのドレッシングガウンをここに頼んだ)に送られ、「シュルカ」は喜んでそれを彼のためにネクタイに仕立て上げた。そのネクタイは、一年に2本づつ彼が逝くまで作られたという。







、、、実は、、、このオズワルド・ヘンドリックス・コーネリアス、実在の人物ではありません。これは、ロアルド・ダールが創作した魅惑的な物語の主人公。

しかも、この物語は凝った形式になっていて、オズワルドの甥である物語の語り部の家に、頑丈な木箱に封印され、極上の緑のモロッコ革で装丁された全28巻のオズワルド・ヘンドリックス・コーネリアス自筆の日記が船便で届けられるところから始まる。

木箱には一通の手紙があり、「遺産として、この日記をお前に譲る。ただし、ゆめゆめ、人に見せたり、公刊など考えなきように、その場合は、おまえと出版者に命を落とすほどの危険が及ぶであろう。」と記されている。

「私」は、この日記を一気に読み通し、その魅力に取り憑かれる。それは、30有余年も音信のなかった、家族のなかではヒーローとして崇められていた人物、叔父の世界を巡る情事と奇譚の記録だった。これにくらべれば、カサノバ回想録も子供の絵本に見える。

たしかに、実名で赤裸々に綴られた日記は、ページごとに社会的なダイナマイトを抱えていて、出版は問題外だった。

しかし、「私」は諦め切れない。弁護士と相談し、二人して徹底的に日記を再度、検証し直し、告訴の危険のないであろう日記を選び出す。幸いなことに、それは6つあった。

それを、ひとつひとつ公刊していくという形の短編形式でこの話は展開していく。どうです、、ワクワクしませんか。


しかし、このオズワルド・ヘンドリックス・コーネリアスもの、実際に6篇書かれたのだろうか。私が見るかぎり2編しか見当たらないのだけれど。それとも、雑誌に掲載されでもして、短編集にはいまだ未収なのだろうか。

ロアルド・ダールもすでに亡く、その続編は望みようもない。生きていればなあ、手紙でも書くのだが、、、、


ちなみに、この残された2編、
ひとつは1946年8月24日の日記で、オズワルド・ヘンドリックス・コーネリアスがシナイ砂漠を自動車旅行する話、ちなみに彼の車は、戦争中は用心深くスイスに保管されていた戦前のラゴンダの最高級車種です。
もうひとつは、日記の第23巻にあるというパリでの「香り」についての奇譚、、、、、

遠くに雷鳴をききながら、私は白い寝椅子に転がって、、ああ、読書は愉し。








ちなみに、私はロアルド・ダールと会ったことがあります。大昔、偶然、コベントガーデンのペンギンブックスでサイン会をやっていたんです。何故か、人もあまりいなくて、ゆっくり喋れました。
とても、きさくな良い人物でした。



















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by momotosedo | 2008-08-05 21:17 | ■読書は愉し

6月30日(雨後陰)  吉田健一とヨーロッパ




 
読書は愉し
吉田健一
とヨーロッパ
百歳堂 |  吉田健一の文章のダンデイズム




ジュアンとヨーロッパのことを話題にしていて、ふと思い出したのは吉田健一のことだ。
吉田健一には「ヨーロッパの人間」(新潮社 1973年)という好著があって、多分、当時、ヨーロッパというのを、まともに、かつ自然に把握していたのは吉田健一だと思う。(「吉田健一ぐらいだろう。」といいたいところだが、それほど日本の総てを知っているわけではないので言えないのが歯切れが悪い。)

それは、吉田健一は、生まれや育ちの関係もあって、その中に当然のように育っていて、しかも上流の教育をヨーロッパで受けている。さらに、それを「どうでも良いこと」と流してしまう根性と育ちの良さに恵まれていた。つまり、情報と経験が格段に違うのだ。これでは、ともすれば憧れや文献だけで語らざるを得なかった当時の、まだまだ閉塞的な日本の学者や作家が「半可通」の愚かに見えたのも仕方がない。事実、或る時期の三島由紀夫とは仲が悪かった節が伝えられている。

吉田健一の書いたものが、いまでも通用するのは、首相の息子であったとか、ケンブリッジに学んでいたとかという、俗人なら笠に着たい部分を、一顧だにしないで、本当に自分が思っていること、重要と感じていることを、何とか論理立てて伝えようとしたところにあると思う。あの不思議な文体は、その思考の歩みを読む者と共犯したいという意図もあったのではと穿ってみる。




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by momotosedo | 2008-07-01 02:42 | ■読書は愉し

6月29日(雨の日曜日)  ベルエポック  ロベール ド モンテスキュー



百歳堂日乗




 
読書は愉し
ベルエポック

百歳堂 |  ロベール ド モンテスキュー






f0178697_16282883.jpgハースの「ベルエポック」が俯瞰的ならば、モンテスキューの生涯に焦点をあてて、ピンポイントでベルエポックを語っているのが、このフィリップス・ジュアンの「1900年のプリンス」(国書刊行会)である。


フィリップス・ジュアンは、モンテスキューだけでなくベルエポック、エドワーデイアンの人物についても幾つかの評伝を残している、そのどれもが極めてよく調べられており、また人物の捉え方も深く、独特の見識がある。
ジュアンの文体は、流麗でレトリックにあふれ、ときに皮肉めいてもいる、ただ、それだけに原文で読むと時間がかかる。悪文では決してないのだが、手強いのだ。それに、大作でもある。私は、当初、原文のテキストで読んでいたが、早く先に進みたくてつい飛ばし読みをしてしまう、それで翻訳本が出たときにはさっそく購入した。ただ、ジュアンの文章の華麗さを味わうためには、原文の方が良いのは当たり前で、日本語におきかえると変に仰々しいものに見えるのが残念だ。大体、置き換えること自体に無理がある。 

それはさておき、、、、


ハースの紹介のところでもかいたように、「ヨーロッパが社交人種によって有機的に交流していた。それが、ヨーロッパを捉えるときの忘れてはいけない鍵だ」という点において、モンテスキューという独特な社交人種を軸に語るジュアンの著書ほど、それを具体的にといてくれるものはない。
例えば、イタリアを逃れてきたダヌンツイオをパリで庇護するひとりがモンテスキューであった。詩人として認められたいモンテスキューにとって、ダヌンツイオは憧れだった。ダヌンツイオに音楽劇を書くことを勧め、ドビュッシーをダヌンツイオに紹介してやったのもモンテスキューだった。ダヌンツイオの芸術に対するモンテスキューの忠誠は痛々しいほどだ。













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by momotosedo | 2008-06-29 16:30 | ■読書は愉し

6月26日 (雨後陰 寒さ覚える) ベルエポック



百歳堂日乗


 
読書は愉し
ベルエポック
とヨーロッパ
百歳堂 |  ベルエッポクとヨーロッパの上流社会







f0178697_23475175.jpg今日は、朝からの雨で、それに少し冷えている。こんな時は、朝風呂にゆっくり浸かるのが一番。雨足をたしかめながら、湯船につかる。
こうして熱い湯につかっていると、本当は、別のものが飲みたくなるところだが、肝臓と今日一日のことを思いやって、冷やしたミネラルウオーターを飲むことにする。

今日の一冊は、「ベル エポック」(ウイリー ハース著 デッチェ書房 1967年)。この本は、ブダペストの古本屋で購入した。ブダペストは、良い古書店が数多くある、或いは、いまや「あった」という現状かもしれない。(自由経済になってから、次々に、本屋が銀行に変わると友人は嘆いていた。)ブダペストは、歴史のある街だし、社会主義の時代から(或いはそれゆえに)読書、書物を尊重する気風にある。すくなくとも10年ぐらい前までは、古書店の品揃えは素晴らしく、なかには仰々しく赤いロープがはられた奥の小部屋で稀刊本をオークションしている店もあった。


f0178697_23414295.jpg
ハースはベルエポックの時代のヨーロッパを俯瞰して語っているので、一応の概要を知っている人には物足りないかもしれない、しかし、ひとつのムーブメントが波及していく過程と、やはりヨーロッパというのが、ひとつの地形でつながった地域なのだということをあらためて感じさせてくれる。

これは、島国生まれの我々には、分かっていてもなかなか実感できないことだと思う。そして、もうひとつ実感しにくいことは、そのヨーロッパ各国をつなぐものとして、上流階級、社交界があったということだ。ヨーロッパ各国は、上流社会、社交界によって有機的に交流していたのだ。とくに、第一次大戦までは。

それは、まるで花の受精を助ける蝶か蜂のように、彼らの「旅」と「社交」によって、文化、芸術、あるいはもっとビビッドな風俗は「輸入」、「輸出」され、それぞれの土地でその地なりの花を咲かせていった。
百歳堂日乗






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by momotosedo | 2008-06-26 23:43 | ■読書は愉し

6月18日  捕り物帖



 
読書は愉し
半七
と江戸
百歳堂 |  綺堂というアーカイブ







f0178697_4231267.jpg この頃、よく持ち歩いているのは岡本綺堂の「半七捕り物帖」(廣済堂出版 1972年)で、これも学生時代によく読んだ一冊だ。

半七捕り物帖は、日本初の捕り物帖といわれ、大正6年あたりから書かれている。日本の探偵小説ともいえる「捕り物帖」というかたちを発明したのが綺堂で、綺堂自身が明言しているようにシャーロックホームズを明らかに意識している。(英語に堪能だった綺堂は、丸善でコナンドイル選書をいち早く手に入れている。)

もうひとつ半七ものが興味深いのは、「私」(明治に新聞記者をしていたという設定で綺堂自身を思わせる)が、幕末に神田で岡っ引をつとめていた半七老人(いまは、赤坂で楽隠居を決め込んでいる)と知りあって、赤坂の隠居所を尋ねては老人にねだって、その思い出話を聞き出すという趣向になっている点で、毎回、この短い「枕」が時節時節の大正あたりの東京をよく描いていて楽しい、そしてこの「枕」から半七が手柄話を語りだして物語は「江戸」に移る。

つまり、構成としては、「江戸」に生きた人が体験としての江戸を語るわけで、これは作者としては生半可な「情報」では書けない、書かないという規制を設けるということで、綺堂が描く江戸は言葉もその時代の説明も確かで、しかも分かりやすい。そして、情緒がある。


半七ものは、ハデなストーリーで惹きつけるというものではない。その魅力は、この確かな描写と情緒で、それが夢中にさせる。

あだや、「捕り物帖」と軽視することなかれ、ここには、江戸言葉から社会のしくみ、風景、地形と一級の江戸のデーターベースが贅沢なまでに盛り込まれている。

学生時代、日本がヨク分からなかった私は、半七に夢中になって、綺堂の他の著作をたどっていくことにより、どんな参考書より「日本の近世」というものが分かった。

綺堂という作家は、日本の作家、知識人のなかでも確かなコンテンツと気概をもった一人だと思う。







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by momotosedo | 2008-06-19 04:24 | ■読書は愉し

5月31日  晴耕雨読  澁澤龍彦さんの思い出



百歳堂日乗



 
読書は愉し
澁澤龍彦
という硬質な夢
百歳堂 |  澁澤さんの思い出








f0178697_17342860.jpg5月も末になって雨が続いている。今日も、朝からの雨で、午後になっても霧雨が止まない。
本日は、晴耕雨読。寝椅子で書物を抱えてガラス窓から時折、空中に舞う霧の露をみている。
この頃は、書架に残る古い本を再読している。歳のせいで、一度読んだはずの本も内容をほとんど忘れ、推理小説さえ新しく読むことができる。これも老いることのありがたさかな。
本を蒐集していたのは、やはり学生時代で、その頃は家に好みの書物だけを積み込んだ小さな図書館をつくることを夢見ていた。それが、いつしか実際の世の中を飛び回っている方が面白くなって、読む時間も惜しくなり、私家図書館の夢も忘れてしまった。そんな埃の積もった、その時分の本を取り出すと、焼けた紙の匂いとともに記憶の断片も蘇る。

今日の一冊は、澁澤龍彦さんの「胡桃の中の世界」(1974年 青土社刊)。渋沢さんの本は、「毒薬の手帳」、「秘密結社の手帳」など桃源社の手帳シリーズから、澁澤さんが編集に携わったカルト雑誌「血と薔薇」まで、学生のひと頃、深夜に読み耽った。澁澤さんの本といえば、深夜の読書。一癖ひねりたい学生のバイブルだった。

学校を卒業して、一応の職業についていた20代半ばの私は、一度だけ北鎌倉の澁澤邸を訪ねたことがある。
そのころ知人の誰かがお化けの本(まだ新書にあると思う)を編集していて、それに必要な図版が載った本を澁澤さんに借りにいったのだ。
何故、私が行く事になったのかは、今もって分からない。とりあえず、電話で依頼をすると快く承諾してもらった。
それで、5月の或る日、私は北鎌倉に向かった。澁澤さんのお宅は、白い瀟洒な洋館というのでファンの間では有名だった。北鎌倉の高台の緑に囲まれたその白い洋館は、木造(多分)の白いペンキで塗られた意外に小造りで、神秘主義の作家のおどろおどろしさというよりは、快適で気のおけない避暑地の別荘を思わせた。

奥さんの竜子さんが迎えてくれて、書籍の写真でも見た、四谷シモンのエロテイックな人形や、骸骨、貝の標本が飾られた応接間に通された。事前に、「澁澤は夜更かしなので、午後2時以降にならないと起きてきません。」と伝えられていたので、多分、着いたのは午後3時ぐらいだったと思うが、まだ渋沢さんはお目覚めではなかった。

奥さんは、お茶をだしながら「もう起きてきますから。」とおっしゃた。応接間は、澁澤さんの書斎ともつながっていて、そこにはクラッシックなつくりの書棚とダイニングテーブルほどある大きな書き物机の上にも書物が積み込まれていた。書斎のむこうは、庭に面した大きなガラス窓で、窓越しに5月の緑がうっそうとみえる。

そうこうしている間に、「ガラガラガラ、、、」という大きなウガイ声が奥から聞こえてくる。正直、そのウガイの大きさに驚いたが、いま思えば、このとき既に喉頭ガンの兆候があって異変を感じられていたせいかもしれない。

裏覚えだけれど、たしか黒地に赤いパイピングのある質の良さそうな厚手のテリークロスのバスローブ姿で澁澤さんは現れた。
ここから、記憶が曖昧で、肝心のどんな会話をしたのかが思い出せない。覚えているのは、椅子に座るなり、まず葉巻(多分、当時でていた国産の「アルカデイア」とかいう葉巻だったと思う)に火を点けられたと言うことと、拝借する本はすでに用意されていて、私は自分の名刺に拝借の旨をかいて渡したということ。
それに、印象に残っているのは澁澤さんも、奥さんも気取りがなくて初対面の若者に対して実に自然だったということだ。

澁澤さんも、奥さんも驚くほど「臭み」がなかった。たとえは変かもしれないが、新鮮な淡白な白身の魚、たとえば白魚みたいだった。巷間有名な抜けるほど色白のフォトジェニックな容姿のせいもあるのだろうが、いや味な臭みがなかった。

そのせいもあったのか、何だか淡白な会話とお付き合いに終わってしまって少し悔いが残る。




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by momotosedo | 2008-05-31 14:22 | ■読書は愉し