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11月3日 (寒くなってきた) 「HOLD ON I`m Coming」



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21st Century
Dandy




Art&ClassiC



Don't you ever feel sad,
Lean on me when times are bad.
When the day comes and you're down,
In a river of trouble and about to drown 、、、


HOLD ON I`m coming


悲しんデちゃダメだ、苦しみの海に飲み込まれそうになって、ツラくてヘコんだときは、俺を頼りにしてくれ、、
待っててくれ、スグ駆けつけるから、、、「Hold on I`m coming」は友情についてのシンプルに本質的な衝動といえる、

「感動」とか「衝動」とか素直な心は、良い運動神経を持っている、

幸せになるのも、幸せにするのも「心の運動神経」がその核にあるのは間違いない、

この「心の運動神経」には何の「規制」もなく「無限大∞」で「常識」に囚われることもない、貴方の好きなように育てることが出来る、そして、知っての通り、人間の「心」ほど魅力に溢れるものはないが、これほどヤッカいなものもない、「格差社会」といわれる21世紀の「格差」の本質は「心の格差」として潜行している、





「21世紀」を語る時、多くの人は経済指標を軸に「これから」を解析しようとするが、21世紀で未来を本当に指し示すのはヒトの「心の指標」だと思う、20世紀においてヒトの心を永い間「牽引」し「規制」してきた社会構造や産業構造は今やその力を失い、あからさまにその存在意義があるかどうかが問われ始めている、空っぽの「権威」はドンドン、これからも崩れ続けていくだろうから、そういう意味では21世紀は「ルネサンス」的な時代と云えなくもない、



足枷をはずされた「心」は自由に飛び立てるが、その分、自分自身で行く先を示さなければいけない、つまり、本当の意味で「生きる」ためのパーソナルなクリエイテイビテイが問われるのが「これから」だということになる、

忘れていけないのは、「心」は内にある「かたちの掴めない」ものだが、それを包む外側の硬くニヒルな「環境のかたち」に結局、大きく左右される、良い「心の運動神経」を育てるためには、「環境」を意識してつくることだ、
つまり、「内」を意識するよりは、「外」を良く整備する方が実は有効だと云いきれる、

2000年に及ぶ人間の歴史でも、いまだ我々は「心」を思いのままにする術を見つけていない、
「心」は制御不能のものと早く諦めて、愉しいことがあれば「愉しい心」になるというシンプルな「環境の浸透圧」として割り切るべきだ、誰もが知っているというけれど、「失敗」の多くはそこにある、





自由でチャンスに溢れているが、剥き出しのタフさを露わにしていく21世紀では、よほど骨太で無頓着にしたたかなクリエイテイブパワーを持つ「心」でない限り、何らかの拠り所が必要だろう、多くの「心」はさ迷っている、


同じ様な状況が、英国の民主主義の黎明期にもあった、<今の時代は、むしろ現代社会の礎となった19世紀に似ている、1873年10月に端を発した金融パニックが、その後、65か月に及ぶデフレを生み出しているのも今とその姿が重なる、21世紀は時代の本質としては次の時代に繋ぐ「プチ礎」エイジ(copyright 2009 momotosedo R.H. ) だと思う、>そのとき、志を持つ「紳士」たちはどうしたか?

「倶楽部」をつくったのだ、同じ志をもつ仲間を募り自分たちの意見を強固にし、なんとか愉しく逞しく生き延びようとした、だから、いまだ英国の「クラブ」の本流にはポリテイカルなクラブが多い、

「クラブ」は或る意味で、社会と個人の間にある「ソフト ソサィエティ」(copyright 2009 momotosedo R.H. ) だと思う、ここでは、メンバーは老若に関係なくファーストネームで呼び合い、メンバー同士という「信頼感」で結ばれている、ただし、金ではなく誰でもがメンバーになれるわけではない、クラブの「質」と「格」はメンバー自身がつくっている、

当たり前だが、クラブそのものは「古い建物」と「その歴史」に過ぎなくて、今を支えているのはメンバーの「質」に他ならない、このことを良い「クラブ」はよく覚悟している、だからメンバー選びには慎重にならざるをえない、





毎年送られてくるクラブのメンバーリストの後ろには「affiliate club」の項があり、古いクラブは世界中のクラブと繋がっている、ひとつのクラブに入れば、事実上、メンバーは世界中のクラブを訪れ、その地のクラブのメンバーと交友し、旅の根城とすることができる、

しかし、クラブに「メンバーカード」に類するものはいっさい存在しない、ただ、所属クラブを告げるだけで済む、多分、裏ではクラブ同士の連絡確認が行われているのかもしれないが、紳士はそんなことを気にする必要はない、
考えてみれば、クラブの読書室に保管されている「キャンデイディト ブック」にはこれはクラブが存続する限り名前が残るだろうが、ついぞメンバー証明書などというものももらったことがない、

メンバーになったときもクラブの壁に張り紙がしてあったぐらいで、特別な認定式みたいなものもなく、メインダイニングのメンバーデイナーの席でいい加減なスピーチをしたぐらいだ、請求書は忘れずに送られてくるというのに、、、
生きている本人がいればそれが何よりの証明ということか、死んだ場合は、近しい仲間とコミテイーメンバーで「お別れの会」が催されるらしい、もし、それだけの人徳があればの話だが、、

(このaffiliate clubのリストを眺めていて興味深いのは、どんなに歴史の古い国でも「敗戦国」には「ジェントルメンズクラブ」は存在しないことだ、多分、かつてはあったはずなのだろうが、、、)



今どき、珍しいシステムだが、考えてみれば歴史上、どこでも「仲間づくり」は行われてきた、
ただ、我々は20世紀の中途半端な「ミーイズム」の解釈で去勢され仲間づくりのノウハウの充実と実行力を失い、或いは、それだけ求心力のあるコンテンツ(志)が「八方美人なマーケテイング」や「本物を知らない社会」によって生まれにくくなっていた、



質の高い、刺激的でワクワクする「ソフト ソサィエティ」は、タフな21世紀において本当の意味での「心」の「贅沢」といえるのかもしれない、










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by momotosedo | 2009-11-04 03:26 | ■21st Century Style

8月25日(秋はまだか) 「Rhapsody In Blue"S"」





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21st Century
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父が最後にかけてくれた言葉は何だったろう?ニコラはあのあとずっといつまでも、何度も思い出そうとした。山荘の玄関でさよならを言ったあと、父はいろいろ注意の言葉をくりかえしていたが、ニコラはともかく早く帰ってくれないかとじりじりするばかりで何も聞いていなかった。
(エマニュエル・カレール「冬の少年」の巻頭の一行、原題は「la Classe de neige」、”雪の教室”、少年の悲痛な”白日夢”が展開する冬山のスキー教室を指している、)


1950年代を境に、世界は「父親」を失くしはじめ、或る種、複雑なコンプレックスを持ちながら、我々は実はその陰で「理想の父親」を探し求めている、

現代は「父性」よりも、「母性」的なるものが強い社会なのかも知れない、

我々は「父性」なるものへの強い憧れを抱きつつも、「父親」的存在になるには確かな「ノウハウ」を失いさ迷いつづけている、




人の心の奥底にはさまざまな迷いが潜んでいる、

埃を被った古典的なメンタルモデルをいまさら引っぱり出して、それを「分析」するコトが目的ではないので、さっそく極く偏見的にゴールから読み解くと、ヒトは「満たされていない」とき迷いだすのだと思う、


迷いは「嫉妬」から始まり、時として「私が悪いのは貴方のせいヨ」的な一方的な「憎悪」へと理不尽にエスカレートする、これは時代とともにその「対象」が拡大し、その表現に「技術革新」があったとしても、古来からそう変わってはいない、




父性の本質は「創造性」にある、今の時代に再び「父性」が求められているのは、分析に長けた「演繹的な考え」や「編集」的なアイデアでは現代の「満たされない」世代を充分「満たす」ことができないからだと思う、

多分、「母性」的な「ゆるし」よりも、そういう「満たされない」世代は「夢中に」なれる新しい次元をみせてくれて、「満足させ」てくれる「クリエイテイブ」な「父親」の姿を期待しているのだと思う、



さて、ここでひとつ気がつくことがある、

 
「満たされない世代」はむしろ向上心を是とするマジメな世代に潜んでいる、しかしモノ事すべてが際限なく向上するはずもなく、すべてのヒトが革新できるわけでもない、大切なのは人間的で豊かな「魅力」であって、「魅力」と物理的な「向上」とでは根本で違う、「満たされない」が反応を誤ると内面へと向かっていって傲慢な孤独や出口のない孤立を生み出す、



私は、「満たされない」ということの本質は、YouTubeでキース・リチャーズが打ち明けるように「ブルース」だと思う、

つまり、「悲しい」けれど、元来は歌でもガナって、「悲しみ」を「分かち合う」ものだ、「ブルース」という「アイデア」は「第三の道」で、実はとても21世紀らしい、
人間的な多くの問題は多分、「解決」に切羽詰まるより、むしろ「分かち合う」方が上手くいく、





「満たされない」は、60年代にミック・ジャガーの若い肉体で変質し、80年代にはDEVOのカバーで複雑化して、やけにエッジーで意味深なものに聞こえたが、本来は「分かち」合える「ブルース」だということだ、なンだ、そうだったのか、


「ラプソデイー イン BLUE」の「ブルー」が多分、「ブルース」コードのブルーであるように、無理をして囚われるより、21世紀のアレやコレやを「ブルース」という「アイデア」で分かち合うことを覚えはじめよう、


それは「生物」としてたくましく生きる学習だと思う、

R.H.






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by momotosedo | 2009-08-25 07:38 | ■21st Century Style

8月22日(夏日、今週から秋めいてくるというが本当か?) 「いつも」





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21st Century
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夏の陽光が眩しいほど照らす、「庭園」というよりは英国の自然のうっそうと輝く草花の向こうのテラスで80歳を越えた老女は、テレビクルーと訪ねてきた孫たちにお茶をふるまっている、

(*愛用の紅茶茶碗、もう何十年来、これで紅茶を飲み続けている、かなり古い、18世紀末、或いはもっと古いもの「らしい」、ただし、ロイヤルなんとかというものでもなく、刻印すら焼きつけられていない、何故、これが旅行道具かというと、旅にも持参していくからだ、壊れないように専用の鰐皮のフィッテイングケースも昔、ロンドンでつくらせてある、)


印象に残ったのは、老女が自分のお茶を注ぐそのティーカップがもう「壊れている」と云えるほど淵が欠け落ち、いかにも年代ものだったことだ、

「いつも私はこれでお茶を頂いてきたから、、」老女は小さな言い訳のように独りごちた、
そのティーカップを見る限り「いつも」と云うのがどれほどの歳月を示すのかが思い知れる、半世紀を優に越えて彼女と彼女のティーカップはともに寄り添い続けてきたのだろう、、、

この『本物の「いつも」』が多分、21世紀の我々が探し出さなければいけないものだと思う、






我々は時代ごとに生き方を見つけ、新しい考えに気づいてきた、
「ヒッピー」から「モバイルライフ」、「ロハス」から「デファクトスタンダード」まで、、、
そして我々が、21世紀に気がつかなければならないのは、生物としての素直な「感覚」と、「愛情」だと思う、


演繹的な文章や考えに何の魅力も感じないように、もはや、ジャーナリズムやマーケテイングからは感動は生まれないだろう、


ジャーナリステイックな「情報収集」や、マーケテイング的な「周到さ」は、とても上手く我々の生活に浸みこんでいるが、その反面、素直な「感覚」や「愛情」に忠実になることが忘れられ気がつくと我々は愛することが下手になってしまっていた、もしかしたら、それらは生物的な「愛情の栓」を閉塞させてしまうものだったのかも知れない、





彼女の本物の「いつも」のように、
本物の「好き」という背景には「情報収集による選択」の「結果」とは違う、愛情の栓をいっぱいに開いた「履歴」がある、


第一、我々が「具体的な理由」として「思い込んで」いる情報という「事実」は、実は移ろい易い表面の一部を不確かに言葉に置き換えたものにすぎず、単に文章に変換しやすい表層の羅列にすぎない、


人間の全てを変換することはできない、そして、変換できない部分にこそ真実が潜んでいる、


「変換」し易い「情報」だけに基づいてきた社会は、どこかで矛盾し終わりを告げるのだと思う、


私は、21世紀のその先のコンセプトを探しておきたいと考えている、そしてそれは、多分「愛情」なのだと思う、愛情深く、愛情のかけ方を知っている「チーム」だけが幸せにサヴァイヴしていけるだろう、


ただ、60年代の楽観的な「LOVE & PEACE」と違って、タフな現実に怯まない素直で力強い、生物としての硬いボデイに忠実な根っこの「愛情」で、「常識」なんて無視して良い、


彼女のティーカップのように、少しぐらい壊れてもあきらめないことだ、


R.H.







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by momotosedo | 2009-08-22 02:31 | ■21st Century Style

8月12日(夏日)  「クローン」





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21st Century
Elegancy




Art&ClassiC and ScienCe





時間をみつけては「20世紀の記憶」を断片的にメモしている、
今のうちに「記憶」のバックアップをつくっておこうと思う、


その「断片」に勝手なタイトルをつけて、パソコンのドキュメントファイルに並べていくと、
記憶の「破片」はモザイクのように、それなりの模様を描き始める、


半世紀を生きてきてメモリー容量が限界に達したのか、一度、はき出しておきたい気持ちに駆られた、


60年代の若々しい「意識革命」の時代感と、70年代のキラキラ輝いていたスゥインギングロンドン、ひたすら移動していた80年代を経て、何か変わるかもしれないと漠然と期待感をもっていた90年代、、、


80年代から通い始めた中南米の町や海やジャングルに埋もれた遺跡のことを思い出すと、それなりに面白く、ダークな美女の瞳のようにミステリアスで記憶を辿ることに魅かれもするが、所詮、記憶は「記憶」、破片は「破片」、移し替えたメモリー分の21世紀に興味がわいてくる、 

時代には、その時代に味わうべき愉しみと生き方がある、

多くのひとは、何かのクローンのように、その「オリジナル」である何かを探しているが、


21世紀は、貴方自身がオリジナルでパーソナルな生き方に挑戦する世紀だと思う、それを阻む垣根はすでに壊されているか、無力化している、



そんなことを思っていたら、ジョン・マーティンに次いでウィリー・ドゥヴィールも逝ってしまった、ドゥヴィールもまたオリジナルなギタリスト&シンガーだった、








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by momotosedo | 2009-08-12 13:24 | ■21st Century Style

2月5日  「歪んだ真珠とAimee Mullins」







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大久保は一日中、靴のことを考えているそうです、私はもう少し大きく靴を捉えて研究し続けています、六義は「変わっている」とよく言われますが、アプローチの奥行きをより深く持っているだけです、アインシュタインが言うようにいつも同じやり方では解を望めないことがあります、

その意味で、ここでご紹介したいエイミー・ムュリンズのアプローチも彼女独特のものといえるでしょう、
そのキャリアを手短にご紹介しましょう、ムュリンズは、アトランタパラリンピックでの世界記録をもつスプリンターであり、女優、そして伝説となったアレキサンダー・マックイーンのショーで衝撃を与えたファッションモデルでもあります、

そして生まれながらにして腓骨が欠落しているというハンデイを背負い、そのため幼いときに両足を膝下から切断しています、


しかし、彼女の微笑みに曇りは見出せません、人生を愉しんでいるようにみえます、これは、我々が思っている以上に相当なことです、


義足をつかって歩くことを覚え、そして走る喜びをみつけ世界レベルで競争できるスプリンターとなり、地元のジョージタウンの大学では外交と歴史を専攻しました、2008年にはトライベッカ/ESPNスポーツフィルムフェステイバルの公式親善大使にも選ばれています、
なにより、彼女は新しいコンセプトの義足の開発に情熱的に取り組んでいます、MITとも共同でロボット工学を駆使した電動くるぶしも開発しています、


アプローチとはこういうことです、良いアプローチはまっすぐに解に向かっています、





そして、いまほど「テクノロジー」の恩恵をはじめアプローチの多様性を得られる時代はありません、私は、その意味でいまの時代は「バロック(『歪んだ真珠』と18世紀には揶揄されてそう呼ばれました)」だと思っています、


バロックが宗教戦争によって国家や社会が分裂していく「闘争」の時代の不安を背景として、秩序を超越するマニエリスムのうねりに身を委ねたように、いまもまた、過剰なまでに、これまでの「秩序」を越える「革新」と「流動性」を求めていく時代だと思っています、

アプローチの方法をどこまで進化させられるか、そういう時代だと思います、


ただ、歴史をみるとマニエリスムは必ず新しい「秩序」に収束していきます、18世紀の合理主義が17世紀の「バロック」を悪趣味と侮蔑し、それを20世紀で何故か再評価したように、この時代もまた、批判され、「新しい秩序」に収束していくのでしょう、


そして、その世界の「新しい秩序」というものが「誰の」手によってどのようにつくりあげられるのかを見極めていくべきで、バロックというのは、どちらにしても短く終わらざるを得ないものだとも思います、
























copyright 2009 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa
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by momotosedo | 2009-02-05 04:12 | ■21st Century Style

1月21日(夕べから小雨) 「その『美』というのは、ある種の『殺人者』だと、私は思っています。」






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”たとえば、茶席では初座を終えて、後座の席に初めて一輪だけ花が入るのですが、茶席のにじりロから見上げたときに、清らかな花が一輪、床の間の中心に打ち入れられている。それが心の真ん中に飛び込んできたとき、一輪の花でずぱっと心の扉が切り開かれ、死んだともわからないほどに殺される。殺されることが、美として生きたことになる。血も流さず、まるで何ごともなく、清らかなものを見たと思えてしまうほどの、刺し傷をひとつも残さない花、それが千利休が教えた詫び茶の湯の「一輪の花」なんです。”
 (花人 川瀬 敏郎さんのHPから、写真も)


さて、 「美」というのはやっかいだ、
例えばレベル壱の「美意識」を持っている私が、或る日、より高みにあるレベル弐の「美」に出会った瞬間、私はもうレベル壱では満足できなくなる、しかも、世の中には、より高みのレベル参の「美」もあって、それを知るともはや、レベル壱にも弐にも戻れない、

では、当初からレベル参の美意識が持てるかというと、よほどの素養、環境が整わないかぎり、やはり壱から「美」の修養は始まる、しかも、いったん始めると、秀でた人ほど際限のないより高みの「美」を見出していく、さても「美」というのはやっかいだ、 



唯一、「近道」があるとすれば、それは「師」につくことだろう、先達の発見の大系に身を委ねることだろう、しかし、ここでお話したいのは「異端」の美についてである、


ある種の人間が、独自の「発見」を積み重ねるにしたがって、「確信」を持ち始める、
「確信」の破片は繋ぎ合わされていき、小さな「体系」を形作っていく、そうして、いつしか「正統」に対する自らの「異端」を悟っていく、、、

そう話していて、ふと思ったのは、今の世の中「異端」と呼べるほどの根性のあるヤツがどれほどこの21世紀の太陽の下で蠢いていて、或いは沸々としながら繭のなかで夢にとり憑かれているのか、




私にはこうも思われるのだ、かつて「美」は民族の血統のなかにその源泉を求め、世界の「美の歴史」というのは各民族の地政学的勢力図に左右されながら重心をかえていった、
言い換えれば、民族力を背景とした「美」のパワーゲームだ、往々にして民族力に乏しい「美」は、或る一地域の「美」として限定される、


これは、ヨーロッパでの現代日本画の俯瞰的な展覧会を彼の地の美術館と交渉していたときの私の経験からも実感できる、いまから24~25年前の当時のヨーロッパでは、日本画はまだまだ「装飾美術」という捉え方で、「ファインアート」とは認められていなかった、つまり、日本「現代」美術もまた西洋美術のテクストの中でしか価値づけされなかった、

あれから数十年を経て今はどうなのかは分からないが、いまだ日本美術は「オリエンタル美術」のひとつであり、中国美術との対比で語られやすいと私には思えて仕方がない、
もう、そろそろウルトラフラットな21世紀にふさわしい「美」が湧き出してきていい、




しかし、国境や民族という枠を越えて世界を震えさせる「美」は、血統の代わりに「個の力」という強い背骨が必要不可欠で、その背骨の強さは、なにより「生き方」によって鍛えられる、リスキーな「異端としての生き方」をまず自らが怖がってしまう土壌に豊作を期待するのは無理としても、
かえって21世紀は「異端の美」が、血統に根ざす民族の美よりもより普遍性を持ちえる時代だと確信できる、


いまは、不思議なことに「異端」のなかにこそ真実があるように思えて仕方がない、
私の思い込みかもしれないが、いま世界がそう直感しているように感ずる、























copyright 2009 MOMOTOSEDO, Ryuichi Hanakawa
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by momotosedo | 2009-01-21 20:05 | ■21st Century Style

12月24日(陰、今年もあとわずか)  百歳堂「醍」研究室 「第三の円」 




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連休の間、久方ぶりに、ゆったりした時間を持てたので「百歳堂研究室」を愉しみながらフル稼働させていた、

国内、海外を問わずメールを出し、直接確かめたいことは、深夜に電話をかけ、なかなか面白い資料や、思わぬ拡がりがあった、とにかくレスポンスが早い、世界は猛速度で進んでいる、


このところ、ブログの技術的限界(写真データーが小さくて生地の質感が出ない、文字も選べなかったりする)や、ブログとしての枠の制約で書ききれないこともあるので、これらのことは「メール マガジン」にすることにした、そして、ブログはオープンなので、「メール マガジン」はクローズドにしてトコトンはっきりさせようと思う、


各分野で活躍する友人たちと話していてあらためて実感したのは、20世紀のスタイルと「枠」が次々とクラッシュし、崩れている中で、ここ5年で、それを「感覚的」に察知して準備していた限られた「グループ」は、すでに21世紀スタイルという未知の領域に入っていることだ、
(面白いのは、これら「本物の」グループに対して、それをただ形だけ真似たエピゴーネンも登場していることで、これはそのうち淘汰されるだろう)

そして、これらのグループには幾つかの共通した「キーワード」がある、


たとえば、先ず小さな円を描く、 =これが私とする、

その円を囲むように、もう少し大きな円を描く 、これが私を取り巻く環境だとする、



ここまでが、「マーケテイング」に代表される20世紀の考え方だった、


21世紀は、ここで、また、それを囲むように、もうひとつ円を描こう 、これが「第三の円」(copyright R.H.)だ、


21世紀においては、この「第三の円」がキーワードになる、この円をめぐっては幾つかの科学的アプローチがすでにある、しかし、それについては触れないでおこう、この続きは「メールマガジン」で、ハッキリさせたい、




21世紀は、多分、独立した循環機能をもつ極めて小さな「コミュニテイー」が乱立することで進歩していくのだと思う、そういう意味では「ネット」はすでに置いてきぼりにされている、良質な「真実」は、もはやそうそう「情報」化されない、、、




これからは、ブログで書いていくものと、とことんハッキリさせていく「メールマガジン」とに分かれていくと思う、いまのところ「メールマガジン」は、こちらで「勝手に」(?)送りつける「姿勢」(?)で募集はしない、クラッシックから21世紀スタイル、秘蔵のワードローブまで、もっと深く、もっと鮮烈に、、、愉しみに覚悟してもらおう、



感じるのは、「停滞」するところはグルグルと出口がみえない迷路を繰り返し回るだけで糸口さえ見つけられず、その一方で「革新」するところはドンドンその先を突っ走ていくという2極に分かれるのが21世紀だということだ、
アインシュタインのストレートな名言を残しておこう、


We can't solve problems by using the same kinds of thinking we used when we created them. Albert Einstein


「問題が生じたときと同じ考え方をしていては、問題は解けないんダよナ、」

アインシュタイン




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by momotosedo | 2008-12-24 03:20 | ■21st Century Style

12月19日(晴天) 百歳堂「醍」研究室  「BSPOKEの時代  2」




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21世紀は生き方に関するものを、自分のサイズと本心から望むものに合わせ「BESPOKE」することに「気づく」時代です、それが、「生きる」ことの豊かさにつながる、と思います、



もっといえば、すでに「安全に」、或いは「価値に見合う」ものを得るにはそうするしかない時代になるかもしれません、

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ここ10年で、世界はウルトラフラット化し、既に国境による隔たりと「規制」はなくなったといわれています、これは、逆にいえば、我々を国境によって守ってくれる力が薄まったと置き換えられもします、


世界だけでなく、マインドにおいてもフラット化しています、例えば「老舗の料理屋」で出すものに「間違いがない」という思い込みは、「間違い」でした、或いは、「有名百貨店」に売られている品は「一流」だという思い込みも、単なる「思い込み」でした、さらに、国を代表する企業、BIG3は永遠だ、誰かが守るだろうという「思い」は、単なる「勘違い」にすぎないことが明らかになろうとしています、


これは、「国境」(地理的枠)だけでなく、「老舗」や「肉屋」、「米屋」、「大企業」という、イメージ上のこうであろうと言う「枠」(マインド上の枠)も、あてに出来ない時代になったということです、

つまり、ウルトラフラットな21世紀では、信頼すべき「既成の基準」、「枠」は、既にないか、果てしなく崩れつつあるということです、




その一方で、エルブリやファットダックは、「レストラン」、「料理」という既成概念に囚われず、いままでに体験のない「おいしさ」を追及して、急ピッチで進化しています、



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21世紀は、システムのなかで「クラウド(雲)」として、隠れて見えなかったものが明らかになっていく時代です、ウソはバレていきます、


そして、21世紀は、20世紀まで「常識」とされていたシステムが通用しなくなる時代です、アプリケーションを換えれば、どうにか逃げ切れるという次元ではありません、


いまになって、無駄に大きなシステムをもつ「企業」は、サイズを縮めようとしています、新たな「クリエイテイブ」を生み出すのではなく、無理やりサイズを縮めることに躍起なことからも、今までのその姿勢がはかれます、


すでに「国家」、「老舗」、「メガブランド」、「有名小売店」など、これらの「枠」は、崩れようとしています、或いはとっくに崩れています、


これらの「枠」が我々を守ってくれないならば、極論すれば、それに対してロイヤルテイーを持つことに意味はありません、もし、忠誠を誓うとすれば、それは、自分の「本心」だと思います、


いまや「自分」で、「自分」にふさわしいもの、安全なものを「自分」の目で確かめて、見つけ出さねばいけない時代です、しかし、それを作っているところに不審がある時代です、

こう考えると、自分が欲しい、必要なものを、自分仕様で「つくらせる」Bespokeは、実は古い「既成」に囚われた私たちが、「自由」を取り戻すというコトなのかもしれません、


当てにならない「既成」に大切なものを頼るのはリスクが高い、自分の目で確かめた「自分仕様」を生み出す自前のシステムを持つ、


それが21世紀であり、21世紀スタイルです、


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私が初めて、靴をbespokeしたのは、バーリントンアーケードにあった「ブール」という店です、いまは、残念ながらありません、採寸のため最初に店に出向いて、説明を受けているとき、そこの親父さんがポロッと、「世の中には注文靴をはく人間と、そうでない人間の2種類がある」と漏らしたのを覚えています、
私は長い間、それを「既成」ではなく「注文靴」の方が、足にフィットして質が良くて、、という「売り文句」だとばかり思い込んでいました、でも、いま思うと、それにはもっと深い意味があったような気がします、、




「Bespoke」をするという裏側には、大げさに云えば「既成」という枠からはずれる、様々な「転換」が含まれています、

サイズを選ぶのではなく、足に合わせる、スタイルを選ぶのではなく、好みのスタイルをつくる、、そこには、「自由」があります、と、同時に、自分の好きな素材、スタイル、或いはライニング、を「考える」ために、基になる「本心」が必要になってきます、

自分の欲しいものが、イマジネーション次第では無限大に適う「自由」が手にはいる代わりに、考え始めなければいけません、


ここに、「Bespoke」の真実があります、「考え始める」こと、そして「自分仕様」のものを手にいれること、ここから初めて「スタイル」が生まれ、モノを手に入れることが「生きる」ことの豊かさに繋がる行為にシンクロしていくのだと思います、



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ここしばらくの「既成」の動きは、「原価コスト」よりも、マーケテイング費用、販売費用にコストを割く傾向にありました、むしろ「原価コスト」は「効率」の名のもとにコストカットさえされました、それが、問題の根源です、いまや「安全性」さえ疑わしい時代です、「耐久性」は、はなから「限定」されたものとして計画されています、



そういう意味では、「Bespoke」は、いまやコストパフォーマンスに優れたものになってしまいました、




しかし、30数年にわたる私の「Bespoke」経験で実感するのは、「コストパフォーマンス」、「安全性」などは当然の「前提」であって、本当に価値があったなと思うのは別の次元にあります、


それは、「喜び」であったり、「驚き」であったり、感動やワクワクする「体験」です、


これは、「ストレス」が具体的な実体をもつ「病原菌」でないのと同じように、その「形」と「発病の仕方」を説き明かすにはあまりに個人固有のものなので適いません、しかし、「ストレス」とおなじように、具体的な「体験」を伴っています、


エルブリやファットダックのメニューと同じく、「美味い」のは当然であって、「食事」を愉しむという「本心」に戻って、「感動」や「驚き」を与え続けていることに「革新」があります、


これが、人間にとって、或いは一回しかない「人生」にとっては貴方が考えている以上に大切なことなのです、こうした体験を積み重ねたのと、そうでないのとでは大きな人生の「差」が出ると思います、
「生きる」モチベーションというのは、ストレスと同じく理屈ではなく小さなものの積み重ねです、



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(つづく)

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by momotosedo | 2008-12-19 09:28 | ■21st Century Style

12月17日(冷たい雨、暖冬ではなかったか) 百歳堂『醍』研究室  「オーガニック」




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エルブリの話を書き始めたときに、たまたま食事会の話がでて、会場となるレストランを探すはめになった、できれば、今まで行ったとことがない店が良いなあ、そして場所は銀座界隈が良い、旨くても青山やまして六本木ヒルズまでは近頃出掛けたくない、


そのとき、エルブリづいていたから、我が東京に「革新」はあるのかとも思ったし、「ミシュラン」に載っていなくて、しかしそれ以上に旨い店もいいなとも思った、例えば「載っていない」というなら、みかわの早乙女さんが揚げる天ぷらはどうか、しかし今回は昼なので、夜しか早乙女さんが揚げないみかわは残念ながらパス、


大体、「ミシュラン」というのは旅行者のための「ガイドブック」が基本だから、旅行者が安心して食事をとれるというのがコンセプトで、日本の食文化とアップトウデイトな今の動きを深く捉えて、特記すべきものを載せるというものではない、そういう意味では、ザガットサーベイの方が或る意味、住民アンケートを基にしていて、今「おいしい店」を探すにはコアなところがある、
簡単にいえば、「ミシュラン」はあくまで「英語版」が元本であって、日本語版は翻訳本と捉えるべきもので、みかわが載らないのも、その店構えが「旅行者が安心、快適」という枠から外れているからにすぎない、席からレストルームが見える店は、先ずミシュランには選ばれない、


「店屋は、商売だから美味いだろう、美味いだろうと思わせようとして、結果、調味料の味が先にたつ」といったのは魯山人だったか、海の「ふぐ」、山の「わらび」といったのも魯山人だったろう、


「ふぐ」も「わらび」も味がしない、いや、その淡白に最上の美味さが潜んでいる、と、


魯山人は、書にしても「職業書道家」のわざとらしい「上手さ」を卑しいと蔑んだ、料理も店屋の「わざとらしさ」よりも家庭でつくる手間隙惜しまない味が一番という信念だった、


家庭料理の手間隙を忘れてしまった今とは、時代が違うとしてもコンセプトは理解できる、とくに「淡白」が最高の味覚としたのは今一度、頭ではなく舌で実感したい、


「淡白」に美味さの深さを知る、というコンセプトはもしかしたら分子料理の「革新」を越えるかもしれない、

調味料をつかわない「オーガニック」、素材の美味さだけで、調味料の味に慣れた現代人に感動を味わわせることが出来れば、それも現代においては「新次元」だと思う、


それで、結局私が食事会に選んだ店は、全く化学調味料を使わないという銀座の中華料理店だった、オイスターソースさえ天然でつくられているという、金華ハムなどを煮込んだ「ソース」を料理のベースにしている、食べてみて美味しければ、このポストに写真を入れよう、


調味料を使わない中華といえば、「厲家菜」を思い浮かべるが、厲家の家庭料理をベースとしたそれとはメニューを見る限り違うように見える、中華がミシュランでもあまり評判が良くないのは、化学調味料を使うからだ、我々の想定にある中華の「味」と化学調味料は切りはなせない、厲家菜の味がいまいち納得できないところがあるのもココにある、

現代人に「オーガニック」を理解させる難しさは、「調味料」を越えた「美味さ」を生み出せるかどうかにある、


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来年のアトリエでも、「オーガニック」をひとつのテーマにしている、



「優れた素材そのものの美味さ」、味わいという、「加工」と「既成」に慣れた我々にとっては、かえって未体験の感動を提示したい、



そのひとつが「素材」では人の肌に最も近い「シルク」であり、これは極めて上質のデユピオーニが手にはいった、これはちょっと自信がある、

デユピオーニは、そのときの蚕が紡ぎだす「糸」次第で、同じ時代のものでも質に差がでる、極めて「天然」のものなのだ、これだけは、一枚、一枚に宿る上質を丹念に確かめ捜し歩くしかない、
そして、永らく忘れられていた、この極めて説得力のある「実用性」に富み、固有の味わいをもつ素材、デユピオーニで仕立てられたスーツは、着慣れたウールとは違う「未体験」のエレガンスを感じさせてくれるはずだ、





そして、「料理法」のひとつとして選んだのが古の「ソフトテーラリング」の「脱構築」である、


いわば「ネクスト」ソフトテーラリングだ、これは、いわば服を人の身体に「オーガニック」にフィット(まるで人体の一部のように)させて、かつ格好良いというのを考えようとしている、


もうひとつ、我が家の書斎にいま積み上げられているのが、50年代~70年代の「コットン」だ、

これらは、今の我々の「コットン」という想定を軽く裏切る複雑に凝った織りと柄、色出しが私を惹きつけている、

しかも、この織りを解析していくと、ある種のものは適度の「伸縮性」と「耐久性」を与えるために、この複雑な織りの計算がなされていることが分かる、

日本の高温多湿な夏を思うと、コットンが持つドライな表情と爽快感は捨てがたい、しかし、仕立てる側からみると、それがどの程度、身体の動きについていき、生涯の着用に耐久があるかが気になるところだ、


ひとつひとつの生地を見ていった限りでは、ある種のものは生涯の「友」としても適応しており、また、「ソフトテーラリング」の独特のカットと縫いを工夫すればイケる自信も見えてきた、



何より、この「表情の豊かさ」が捨てがたい、そう、これらのビンテージコットンは、古のツイードが持つプレイドの美しさ、多様な織りの豊かさと同様の「驚き」を持っている、








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by momotosedo | 2008-12-17 22:10 | ■21st Century Style

12月13日(晴天、ホントに暖かいと思う) 「太った鴨と21世紀のテーラー」 2





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All fixed set patterns
are
incapable of adaptability or pliability.
The truth
is
outside of all fixed patterns.
Bruce Lee(!)


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21世紀スタイルは「本心に戻る」ことから始まる、そういう意味では「新しい哲学」の時代だといえるかも知れない、

エルブリが「エルブリワールド」ともいえる世界観をもつように、マーケテイングテクニックからではない、本心からでた「世界観」が新次元を開くと思う、

大久保は、六義の準備期間中に、一緒に蕎麦をたぐっているときに、ぽろっと漏らした「僕は、ラスト代をもらいたくないんです、ラストは職人の僕にとっては財産なんです、、、」それ以来、我がアトリエではラスト代を請求していない、




ビスポーク「ヘビーユーザー」であり、ヨーロッパのシューメーカーのやり方に不満が溜まっていた私は、それに、こう答えることにした、「大久保、一足目から完全にフィットさせてくれ、一足目は仮縫いと思ってくださいとか云う、ケチくさいことは云ってくれるな、」、、その結果、あくまで手を抜かない仮縫い靴と、合うまで仮縫いを繰り返すという六義のスタイルが生まれた、会議室で囁かれる「マーケテイング」戦略どころか、我がアトリエのスタイルは蕎麦屋での男二人の本心から生まれた、


確かに、クライアントとシューメーカー双方が、納得いくフィッテイングとスタイルを持つ靴の出来上がりを具体的なイメージとして共有するためには、完成品に近い仮縫い靴を納得いくまで繰り返し試すしか方法はない、しかし、それは明らかに「効率」に反する、


この時点で、アトリエは「効率」よりも、「靴屋」に徹することになった、


そして来年で、5年目を迎えようとしている、
幸いにも「スタイル」を崩すことなくやり続けている、


BIG3の破綻や、偽装問題を見るにつけ、人の「本心」という言葉を思い出す、たまにはどうしょうもナイ奴がいるにしても、私自身は、人間はそう捨てたモンじゃないと思っている、


「本心」が曇る理由についてはみんな心当たりがある、そして、いまの時代に「本心」に戻って、そこからスタートするということには、「コスト」とある種の「犠牲」が必要になってくる、そして最も大切なのがつぎの次元を切り開くタフなクリエイテイブ力だと思う、


時代は変容しながら「価値観」を変えていく、そして21世紀の価値観は「本心に戻る」ことだと思う、すでに、それは数々のウソがばれるという形で現れている、


20世紀の象徴であった「ネット社会」も、実体験と正しい知識を持たない、間違った「情報」でメタボ化するだけですでに陳腐化している、いくら「検索」しても「フレッシュな」真実は「情報化」されていない、


真実は、
目で見て、手で触って、不器用で良いから本人と話して初めて手に入る、例えば、革は同じタナー、同じ値段でも一枚一枚違う、大久保は時間をかけて数十枚を丹念に調べて、結局買わない場合もある、そして、大久保が「買わない」、「送り返す」ことに、「意味」がある、

今、バンチを出している「ミル」で、すべての生地を自社生産しているところはないと思う、すでに、ほとんどがマーチャント化し、そして、ほとんどのミルのバンチの内容に差はない、これはとっくの昔に公然の事実だった、現場にいけば分かることだ、そして、当然のことながらひとつひとつの生地が問題であって、ミルの名など形骸化した今では意味がない、


そして、クラッシックスタイルと同様に、単にスーパーの値、梳毛、紡毛、の違いだけでなく、クラッシックな生地には今一度探索すべき尽きせぬ奥深さがある、そして、これらは、もはやバンチに現れるはずもなく、自分の足で捜し歩かなければ見つからない、




英語の「Bespoke」、「Tailor Made」には、服や靴をビスポークするだけでなく、旅や住宅、あらゆるものについて、既成ではない「自分仕様」のものを各人に合わせてつくるという意味がある、その意味で21世紀は「BESPOKEの時代」だと思う、


生き方に関するものを、自分のサイズと本心から望むものに合わせ「BESPOKE」することに「気づく」時代だと思う、それが、「生きる」ことの豊かさにつながる、



我々は長い間、「既成」に「慣れ」てきた、だがいつのまにか「既成」はときに安全性に欠け、マーケテイングという我々には関係のない利益構造からウソをも多く潜ませるようになった、「ラグジュアリー ブランド」が高価なだけで、ちっとも「ラグジュアリー」ではないことに今では多くの人が気づいている、


いまや、「Bespoke」するほうが、流通段階で奪われる無駄なコストを省けて「お得」だったり、安全であったりもする、


ブルース・リーがいうように、真実は「決められた型」の「外」にある、



「既成」に真実味がなくなったことに、メーカーは潔く反省すべきだと思うが、同様に現在の「Bespoke」がはたして「真実」を充分、クライアントに果たせるほど持っているかについても疑問が残る、

穿った言い方かもしれないが、私の目には、いま「既製服」が、「Bespoke」のイメージを無理やり被せようとしている一方で、マーケットに「目の利く」テーラーは、値段を含めて「既製服」に限りなく近づこうとしている、

いまどき、ハウス「スタイル」、或いはまっとうなクラッシックを真剣に考えるテーラーは稀で、「効率」を追うために、「ビスポークテーラー」は、パターンオーダーに走り、できあいの芯地を使い、雑誌の売れ筋「トレンド」に目を配っている、



約20年前に物理化学者のエルヴェ・ティスとニコラス・クルティーが、料理における「変化」を科学的に解き明かして、“分子ガストロノミー(ガストロノミー・モレキュレール)”を発表して以来、エルブリのフェラン・アドリアやファット・ダックのヘストン・ブルメンタールなどが、未知の料理世界に挑戦し続けていることを思えば、「ビスポークテーラー」の現状は悲しい限りといわざるをえない、


なんでもファットダックには、厨房とは別に、料理人だけでなくスタッフに科学者、心理学者をふくむ「実験室」が併設され、しかも新しく「第2実験室」が設けられたという、

「第2実験室」で扱われているテーマーは、いままでのファットダックの方向からすると意外なものだった、それは、、、ここでは云わないことにしょう、

ファットダックの「第一実験室」では、いくつものプロジェクトが同時進行している、一皿の料理に料理人はもちろん、科学者、心理学者、ときには脳科学者、調香師、味覚の専門家などが関わり、専属のリサーチャーを雇うこともある、でき上がるまでには数ヶ月、或いは数年かかることもある、しかも、それらはすべて「成功」するとは限らない、


「食」は、すでにそういう次元に入っている、そしてこの二人の料理人はクラッシックからキャリアを築いている、しかもクラッシックを越える「美味さ」を目指している、ここが重要なところだ、






料理に例えてみよう、素晴らしい「料理」をつくるための「素材」は「テーラー」にとっての生地と置き換えられる。

ところが、「一般のテーラー」で聞く生地の説明は、紡毛、梳毛、平織り、綾織といったところとバンチ一辺倒で、教科書の範疇をいまだ出ようとしていない、そんな説明は実はあまり意味がない、

真実に大切なことは、
AのシルクとBのシルクの違い、壱のハイツイストと弐のハイツイストの違い、いま織られたシェットランドと古にシェットランド島で織られたものとの違い、という一枚、一枚の「素材=布」の探求とその「新鮮な」提示にある、



スーパーの高さだけが、布の品質と思われていた数年前のイノセントな時代ならばそれでも体面は保たてたろう、一流のシェフが、少なくとも先ずは「素材」の吟味に拘る一方で、「テーラー」はバンチという「レトルト」にまだ囚われている、



同じことは、「テーラリング」という「料理法」そのものの捉え方にもいえる、

私が常々不満だったのは、現代のヨーロッパのテーラーではほとんど差という「ハウススタイル」がないことで、少しの手癖をハウススタイルと呼ぶべきものではないと思う、スタイル、或いはテーラリングに対する研究度合いの広さと深さが手ぬるいと思う、或いは、それをやっている暇も、余裕もないのかもしれない、


「ハウススタイル」というのは、クラッシックでスタイリッシュなプロポーションや、味わい深いデイテール、スタイルにふさわしいテーラリングということだけではなく、そのスーツを着て出掛けるその人への思いがある、




つまり、テーラリングのアプローチがクライアントに向かっている限り、当然、それは「着手(着る人、着こなし)」としての立場からテーラリングが細かく「解析」されていなければいけない、

「古い着手」のテーラーは、「古い」着手の立場しか実感できないだろう、「レベルの低い着手」のテーラーは、そのレベルでしか実感できないかもしれない、テーラリングのアプローチは先ず、着手としてのテーラー自身を考え直すことから始まる、




例えば、六義のトラウザーズは、静電気をおこさず、動きになじむ独特の素材でフルライニングにしてある、
これは、ツイードは味わい深いが、トラウザーズにするとチクチクしてイヤになってくることや、ロングホーズがトラウザーズの足元でひっかかり、裾がもたつくという私の経験から自然にそうなった、

しかし、職人にとっては、ライニングが半分の方が、ふくろはぎのクセをとる(六義ではかなりカーブさせる)のにはラクなのだ、フルライニングにすることによって、よけい技術と手間がかかる、しかし、この両方が六義のトラウザーズには必要なのだ、「ハウススタイル」とはこういうものだ、「スタイル」というのは気構えを示す、

(つづく)











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by momotosedo | 2008-12-13 14:31 | ■21st Century Style