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8月4日(熱帯夜) コミュニケーションの浪漫的な解釈




言葉をめぐる冒険
Communication
の浪漫的な解釈
百歳堂 |  ユイスマンスの写実、マンデイアルグの描写






書棚からマンデイアルグをとりだして、ついでに隣にあったロアルド・ダールもとりだして、両方を見比べてみました。ズイブン、乱暴な比較だなって?その通りです。しかし、机の上に複数の作家の本を同時にひろげて読むとズイブン色んなことが明確になります。

この二人は、作品はともかく、人間的には共通する部分を持っていたんじゃないかと思えます。昆虫とか家具とか、モノに対する偏執、エロス、怪奇、夢、諧謔への嗜好。違うのは、一方がパリジャンで、もう一方がウエールズ人だということ、なにより「作品」というものの考え方、「読者」というものの捉え方、そして、その「読者」へのコミュニーケーションの仕方です。つまり、質は同じものをもっていても生き方でこうも違ってくるものなのですね。
ちなみに、マンデイアルグの奥さんは画家のボナ、ダールの奥さんは女優のパトリシア・ニールです。そして、両人とも美人です。


TIさんから、コメントを頂きました。TIさん、ありがとうございます。ユイスマンスも、マンデイアルグも理想的な読み方ですね。足の故障はいかがですか。


「デジタルでもコミュニケーションはかえって断絶する」


その通りですね。もっと言えば、ズイブン前から「コミュニケーション」の質自体も、「共感」とか「感動」とかから、「選択」と「決定」へ移ってますね。あと、モウひとつ言えば「削除」かな。

「選択」、「決定」、「削除」という割合が、すでに我々の生活の80%を占めていて、あとの20%に、「感動」「共感」を求める行動をしているかというと、大概の人は単に身近な「退屈しのぎ」をしていますね。

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ユイスマンスとマンデイアルグに共通する「読者」へのコミュニケーションの仕方は、徹底した細密な描写、写実です。物語を語るのではなく、主人公の心理を探るのではなく、そこにある事物を執拗に描写していくのです。先ず、このことを、覚えておいてください。

ユイスマンスの「写実」から探っていきましょう。マンデイアルグの「描写」については後述します。

例えば、ユイスマンスの「大伽藍」は、ただ、シャトル大聖堂の緻密な描写とその謎解きに終始するだけで成り立っています。「大伽藍」は「出発」、「献身者」とともに、ユイスマンスの中世カトリック神秘主義を探る3部作のひとつです。


ところが、これがスリリングで一種の感銘を生み出すのです。

つまり、元来、教会建築そのもの、或いはそこに施された祭壇画、夥しい彫刻という象徴、あるいはそれを含めた空間、、、それ自体がカトリックそのもので、「聖書」という「言葉」より、より現実にカトリシズムに触れられる「コミュニケーション」として存在するものです。
例えば、ウイーンのシュテファン寺院に入ると、そこかしこに刻まれた中世的な動物や、表彰に目を奪われ、その美しさと豊饒はいくら見ていても見あきることがありません。そして、そのひとつ、ひとつにはもちろん、宗教的な意味が秘められています。この空間にいると、信者ではない私でさえも、カトリシズムのもつ奥深さに気づかされます。なにより、身体が感じていくのです。

つまり、カトリシズムを徹底的に探った作家であるユイスマンスは、大聖堂を細密に読み解き、描写することで、カトリシズムそのものを浮き彫りにしていくのです。

徹底した描写によって「空間」を蘇らせ、言葉では現しきれないもの、しかし本質であるものを伝える。これがユイスマンスの写実であり、描写なのです。

ユイスマンスは、ゾラに見出され、自然主義の作家としてスタートしました。その文体の師がゾラであることからも分かるように、ユイスマンスは自然主義の規範である「写実」を生涯、貫き、磨いていきます。

「自然主義」とはリアリズムを定義したものですから、その文体は事物をリアルに映す「写実」でなければいけないのです。

あの「さかしま」も、ユイスマンスにとっては、退廃文学というよりは、「自然主義」の「発展形」として考えていた節があります。

これは、「さかしま」を単独で読んでしまうと、見誤ってしまいますが、ゾラの自然主義からスタートし、「ルルドの群集」にいたる連続したつながりで見ていけば納得できます。

なるほど、「さかしま」は、デ・ゼサントの心象を描くというよりは、「人工楽園」のために選ばれる事物を写実、描写していくことに徹底しています。

また、「さかしま」で、デ・ゼサントが「人工楽園」を設(しつら)え、ついに最後の仕上げとして書棚の書物をひとつひとつ、この「楽園」にふさわしいものに入れ替えていくとき、そこで選ばれる書にも歴然とユイスマンスのカトリシズムへの忠誠は現れています、、、フローベルの「聖アントワーヌの誘惑」、ゴンクールの「ラ・フォスタン」、そして師であるゾラの「ムウレ神父の罪」、、。


ある意味で、この「人工楽園」はデ・ゼサントにとっての「教会」なのです。

事実、「さかしま」の発表後、ユイスマンスは師であるゾラを訪ね、「自然主義の発展形」としての「さかしま」を縷々、説明しにいきますが、ゾラはこれを「自然主義を脅かすもの」として、ユイスマンスに一種の「破門」を宣言します。

ユイスマンスはここで、創作上の「十字架」を背負ってしまいます。この「自分の思い」と「世の捉え方」の溝から、生涯をかけてカトリシズムを追求していくことになります。


ユイスマンスは、その後、悪魔主義的な「彼方」を発表し、巷間では、「彼方」以降、カトリシズムに「回心」したことになっていますが、ユイスマンスのカトリシズムは、当初より一貫したもののように思います。ユイスマンスは、カトリシズムを考えれば、考えるほど、その奥に残虐性や暗黒を抱えていることに気づき、つまり、毒をもって毒を制す、それをなんとか伝えようと黒ミサの「彼方」を書いたように思うからです。



白鳥の歌である「ルルドの群集」で終に、ユイスマンスの「カトリシズム」と「写実」は結実します。これはルルドの奇跡を追った、そこに集まる群集の情景を全力で綴るルポルタージュです。ルルドという究極のカトリシズムの「空間」を全力で描写し、書き残すのです。

ユイスマンスは、このとき既に舌癌におかされていました。


「写実」という「言葉」を使いながら「言葉」では現しきれないものを表出させようという作家の姿勢、「言葉」好きな私は、その純粋形は、詩であり、もっと洗練していったものが、日本の句や歌だと思っています。

「句」や「歌」には季語はあっても、あからさまな感情表現は嫌われます。事物を描写することで、描写の仕方で、言葉では言い表せない本質を語る。そして、それを解釈し、想いはかる。そこには、かなり高い次元の「コミュニケーション」が存在します。そして、その中には選ばれた言葉の美しさを愛でる、組み合わされることで一語の言葉を生かすことを尊重するという、かなり純粋化された言葉の「コミュニケーション」があります。



マンデイアルグも、ときにその場面設定の異常さに惑わされますが、そこで行われるのはやはり粘り強い徹底した描写です。

マンデイアルグは、本人も宣言していますが、文体に拘った作家です。彼のスタートは詩人です。詩人と同時に、極めて知性的な作家で、それぞれの著作ごとに知的な冒険をし続けました。文体も、作品ごとに洗練と試みを重ねていきます。それが、どの程度翻訳に反映しているのか気になるところですが、それでも「言葉」にしっかりと粘り腰で立ち向かう姿はくみとれると思います。

ただ、マンデイアルグの「描写」は「写実」とは違います。その「描写」は、マンデイアルグという作家のイマジネーションから生まれた「言葉」です。

アンチロマンの読者を拒絶するような「写実」と違うのは、写実に徹するということが、伝えたい本質を表現するにふさわしいものとして選びとられているということで、つまりは、その背景にあるユイスマンスとマンデイアルグの生き方に違いがあるんでしょうね。つまり、「コミュニケーション」とは「言葉」とは生き方の問題で変質すると、だから、真剣に生きている人間との「コミュニケーション」には心して当たらねばいけない、マンデイアルグとロアルド・ダールをひろげて、そう思いました。













by momotosedo | 2008-08-05 00:02 | ■言葉をめぐる冒険


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